歴史を変えた事件」カテゴリーアーカイブ

No.74 3月14日 東京に近過ぎ、横浜中心部に遠い駅の物語

(2015年3月14日一部更新)
新幹線は戦後日本のビジネススタイルを大きく変えました。
東京ー大阪間を何分で繋ぐか?
どこの駅に停車するか?
この二つの課題は、新幹線創業以来現在まで変わらぬテーマです。

1964年(昭和39年)に開通してまもなく半世紀。
3月14日(一部15日)は東海道新幹線「新横浜駅」にとって記念すべき日です。

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0系新幹線

東海道新幹線にとって「新横浜駅」は冒頭の課題を象徴する駅です。
一日当り多いときで370本近いダイヤ運行をこなす中、東京から19分で到着し、在来線「横浜駅」には10分以上かかるという中途半端な存在の「新横浜」駅にとって「ひかり」「のぞみ」の停車は悲願でした。
1985年(昭和60年)3月14日

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新幹線の「ひかり」が春のダイヤ改正で51本の大幅停車が実現します。
(それまで新横浜駅停車の「ひかり」は、2本だけでした)
同時に市営地下鉄3号線が横浜と新横浜間開通しました。この日から初代モデル0系に加え、100系が登場し20年目にして「2分」東京大阪間の時間が短縮されました。
たった2分ですが、新幹線にとって価値ある2分でした。
ここに新幹線(鉄道創世記から)東京大阪間時間短縮の簡単年表を紹介しておきます。
1889年(明治22年)20時間5分(新橋~神戸間)
1896年(明治29年)17時間9分(新橋~神戸間)
1921年(大正10年)11時間50分(東京~神戸間)
1930年(昭和5年)9時間00分(東京~神戸間)
1934年(昭和9年)8時間37分(東京~神戸間)
※(東京~大阪間)8時間 超特急「燕」
1949年(昭和24年)9時間00分(東京~大阪間)
1956年(昭和31年)7時間30分(東京~大阪間)
1959年(昭和34年)特急「こだま」の所要時間6時間40分

1960年(昭和35年)6時間30分(東京~大阪間)
東海道新幹線開業
1964年(昭和39年)4時間00分(東京~新大阪間)
1965年(昭和40年)3時間10分(東京~新大阪間)
1985年(昭和60年)3時間08分(東京~新大阪間)
1988年(昭和63年)2時間49分(東京~新大阪間)
1992年(平成4年)2時間30分(東京~新大阪間)
2015年(平成27年)2時間22分(東京~新大阪間)

「ひかり」大増発から7年
1992年(平成4年)3月14日のダイヤ改正で
「のぞみ」が下りだけですが新横浜に一部停まるようになりました。
そして
2008年(平成20年)3月15日
すべての「のぞみ」「ひかり」が新横浜駅に停車するようになります。

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新横浜エリアは新幹線が開通する前、横浜市内最大の水田地帯でした。田んぼの真ん中にできた新幹線駅は「岐阜羽島」と「新横浜」くらいではないでしょうか。とても中途半端な立地性をもったエリアでしたが、兼ねてよりの環状鉄道計画(二俣川から新横浜経由 日吉)が実現するようになり、道路も「横浜環状北線」着工中で新横浜から羽沢にかけて劇的な変化が起ってくるでしょう。
駅ビル(キュービックプラザ)も完成し
半世紀かかった副都心構想が形になりつつあります。都市計画には時間がかかりますね。

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新横浜駅前

(ひとこと)
道路計画に傾斜した都市計画はもう無理があるようです。新横駅前の環状線がかなり重荷になっています。新線駅が道路下に出来る予定ですが、商業核になるかどうかちょっと疑問視です。
(ふたことめ)
新横浜のJR不仲関係もなんとかして欲しいものです。

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ようするに二社共有サービスはできません!

(みことめ)
篠原口はいつまでこのままなんでしょうか

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篠原口
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No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る

あのペリー提督が、予定よりも早く再来港し開港を求めたとき、交渉場所が中々決まりませんでした。
ようやく、幕府は「横浜村」に決めます。ここがまさか<1859年の開港場>になるとは予想もしていませんでした。
交渉は約一ヶ月にわたり、延べ四回の交渉が行われます。
嘉永7年(1854年)のこの日、合意に至り日米和親条約が調印されました。

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たまくす広場

この交渉場所が、現在の開港資料館「たまくす」のある広場です。
隣接して「開港広場」が当時の様子を記念して整備されています。
この日米和親条約は、後に神奈川が開港場所に決まる「修好通商条約」(安政五カ国条約)に対して蔭が薄くなりがちですが、日米関係にとって重要な外交交渉コトハジメでした。
東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーは、(武力行使無しで)開国せよという本国指令はあったものの、二回目の交渉からかなり楽天的に考えていました。
錦絵などにも描かれているペリーからのプレゼント「電信機、模型の蒸気機関車、大砲」などを交渉中に将軍献上します。しかも調印前に幕府の交渉関係者を招いて「パーティ」も開催します。
この交渉、終始友好的に進められたことが分かります。

ペリー上陸の図をラベルにした横浜ゆかりのワイン

ペリーに対し、日本側全権は林復斎(大学頭)です。
日米の交渉は漢文で行われました。朱子学者、復斎は卓越した漢文力と国際情勢の広い知識を買われ、交渉をほとんど任されました。ペリーも林とのやりとりで、直ぐに彼への信頼を確かなものにしたようです。ペリー以前にロシアやオランダと通商交渉はしていましたが、基本的に幕府は開港を望んでいませんでした。ペリーの片思いでした。

開港広場

アジアに列強が押し寄せていることを幕府は認識していましたが、戦争を伴わない交渉で2カ国条約を結んだことは日本外交史の画期的できごとであったといえるでしょう。
一般的に日米和親条約が米国側だけ最恵国待遇を得た「片務性」をもって不平等条約とみなす場合もありますが、日本側が最恵国待遇を辞退した可能性も否定できません。
この一連の重要な外交交渉は、日本側全権代表 林復斎(大学頭)の甥に引き継がれます。総領事タウンゼント・ハリスに絶大な信頼を得た「幕末三俊」の一人、日米修好通商条約に尽力した岩瀬忠震です。

そして、歴史の皮肉というか、岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた時の大老 井伊直弼が、大雪の降る桜田門外で暗殺された日が
安政7年(1860年3月23日)の3月3日でした。
この井伊直弼も、横浜と関係の深い人物です。

井伊直弼ゆかりの彦根ひこにゃん

※時々、桜田門外の変を万延元年とする記述がありますが、間違いです。3月18日万延元年に改元されました。

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英文日米和親条約

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒(ビール)」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。

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開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。
当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。

(起業都市横浜)

成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。

その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。E3-82-AD-E3-83-AA-E3-83-B3-8.58.05 No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
(関連ブログ)
No.40 2月9日 日諾交流

No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

本日50話目です。
横浜市中区北仲にあった横浜地方裁判所(現在は国の合同庁舎)で1917年(大正6年)の今日、世間注目の公判が行われました。

(余談から)
横浜地方裁判所は、1872年(明治5年)神奈川県庁内に司法裁判所として設置され横浜市中区山田町に移転します。
1877年(明治10年)北仲通5丁目の“元フランス公使館跡”に新庁舎が建てられます。
1923年(大正12年)関東大震災により、倒壊焼失したため民家等で暫定業務を行い、まもなく横浜公園内の仮庁舎で業務を開始します。
そして、1925年(大正14年)現在の所在地である中区日本大通9番地に建っていた遠藤於菟設計の旧横浜生糸検査所を模様替えし移転します。
この建物は震災の影響をあまり受けることのない優れた建築でした。
地震、戦災でも朽ちること無く増床のために建て直すまで現役でした。
全国裁判所数々あれど、こんなに移転した裁判所は、横浜だけではないでしょうか。
(未調査ですが恐らく間違いないと思います)

話しを本題に。
世間注目の公判とは、「日蔭茶屋事件」のことです。
小説はもちろん、映画、舞台にまでなった有名な男女4角関係の色恋沙汰です。
事件は1916年(大正5年)11月8日、葉山にある江戸時代から(現在も)続く老舗日蔭茶屋の一室で起きました。
「東京日日新聞」の記者神近市子(28歳)が、元恋人、アナーキストの大杉栄(31歳)に包丁で斬りつけ怪我を負わせ自首したという事件です。
当時新聞雑誌等で有名になっていた二人です。現場には、大杉の新しい恋人、神近が記者になる前に勤めていた「青鞜社」の後輩 伊藤野枝(21歳)が一緒いました。
神近市子が身(資金)も心も捧げていたのに大杉はその金で、別の女 伊藤野枝と遊び回っていることに嫉妬し、刃傷沙汰に至ったという顛末です。
さらにこの二人には複雑な関係がありました。
被害者の大杉にはすでに妻、堀保子(大杉は夫婦別姓を主張)がおり、伊藤野枝には思想家、辻 潤という夫がいるダブル不倫だったからです。
しかも(被告)神近と伊藤野枝の旦那、辻 潤とは親交がありましたから、この色恋沙汰の行方に世の中(新聞雑誌)は沸き立ちました。
大杉栄、伊藤野枝は当時多くの議論を巻き起こした「自由恋愛」を主張していました。
自由とはいえ恋愛関係に理屈は通りません。
この事件のあった明治後半から大正期は雑誌創刊ラッシュの時代でした。
女性の意識が大きく変化しつつある時代でした。女性を読者とする(婦人)雑誌が50誌近く創刊され、テレビラジオの無い時代の最大の娯楽メディアとして育ったのです。
平塚らいてうが創刊した「青鞜」もその一つでした。
他にもざっと調べただけで
「女学雑誌」「以良都女」「花乃園生」「女鑑」「家庭雑誌」「大倭心」「女学世界」「をんな」「婦人界」「家庭の友」「婦人画報」「婦人世界」「婦女界」「淑女かゝみ」「婦人評論」「大正婦女社会」「家庭之園芸」「女の世界」「婦人週報」「婦人公論」「黒潮」「主婦之友」「才媛文壇」「処女文壇」「千葉県婦人脩養と文芸」「人間社会」「中外」「文明批評」「女子文芸」「抒情文学」「人間」「演芸」「女性日本人」「婦人くらぶ」「夜の幕」「恋と愛」「青春時代」「処女地」「女性」「女性改造」「世界趣味写真帖」「村雲」「新興」「愛の泉」「テアトル」「秀才文芸」「生活者」

といった雑誌が創刊されました。この雑誌発行部数を引き上げた特集が自由恋愛を標榜していた彼女達の発言、投稿、行動だったのです。
例えば、神近市子は雑誌に「私事このたび大杉栄氏と従来の関係を絶ちましたので、是まで何かとご心配された方々に対し、とりあえずご報知申し上げます」といった広告で私生活を公開して行きます。
当然批判も雑誌で展開されます。
「日蔭茶屋事件」に至っては犯人が社員だった「東京日日」対他社で報道合戦が過熱します。
横浜地方裁判所で開かれた公判で神近市子は懲役3年の判決を受けます。神近市子とともに新宿中村屋で朗読会に参加していた仲間、秋田雨雀はこの公判を毎回傍聴し、暖かく彼女を見守ります。
大杉、伊藤はその後事実婚となり社会運動に傾倒していきますが、関東大震災のどさくさに甥の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害されます。
この事件は、闇に葬られず世間を騒がせます。主犯として憲兵大尉の甘粕正彦と彼の部下は有罪になります。
「日蔭茶屋事件」をテーマにした作品

深作欣二監督「華の乱」東映(京都)作品
吉田喜重監督 映画『エロス+虐殺』
瀬戸内晴美『美は乱調にあり』
地人会第22回公演 ブルーストッキングの女たち
劇団俳小32回本公演 美しきものの伝説

※今回は 完敗です。要素が大杉で 否 多過ぎて 消化不良です。単純に整理すれば良かった。
リベンジしますこのネタは。面白い。

No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

幕末から明治にかけて、様々な欧米スタンダードが押し寄せました。
目の前で起る現実に政治と立法が追いかけて行く時代でした。
特に通貨制度は諸外国と全く違うため「ハゲタカファンド」の餌食となりました。
通貨主権を取り戻す一つの政策として
1879年(明治12年)のこの日、外国の貨幣(洋銀)相場を日本が統制するために民間資本で作った「横浜洋銀取引所」開業の認可がおりました。

修好条約第5条

ペリー来航によって結ばれた「安政の五カ国条約」には我が国の通貨主権が明記されていませんでした。これは、致命的な国際条約です。国内に外国通貨が流通することを認めてしまったからです。文久3年以降、外国銀行が上陸し為替制度を独占します。幕府の財政が破綻寸前まで追いつめられます。「明治維新」は、徳川政権の財政破綻に対する少々乱暴な薩長土肥の政権交代と考えることもできます。
明治政権になり、政府は為替リスクを回避するために対策を打ちますが、完全に通貨主権を回復するのに明治30年までかかります。まず外国に対抗する銀行の必要性を認識し、横浜為替会社(横浜銀行の前身)を明治2年に設立します。そして明治12年には横浜正金銀行(東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身)の設立許可が出ます。
この年、民間側からも外国貨幣(洋銀)取引の制限を求める要求を政府に行い認可されます。これが冒頭の横浜洋銀取引所です。
この横浜洋銀取引所設立に結集した横浜のキーマンは、
渋沢栄一・渋沢喜作・大倉喜八郎・茂木惣兵衛・吉田幸兵衛・中村総兵衛・西村喜三郎・田中平八・原善三郎という当時のトップ財界人でした。
当時、洋銀相場ビジネスは上手くいくとぼろ儲け状態で、1,000円の資本で年2,000円の利益もざらだったといいます。儲かる一方で、一気に差損も生じるまさに「山師」の世界でしたので、市場の秩序を求めたのです。

(当時の洋銀のほとんど)がメキシコ銀貨でした

横浜洋銀取引所を設立しますが、努力の割にほとんど成功しません。写真家で有名なフェリーチェ・ベアトは財テクのベアトでもありました。(2月16日参照)彼は1884年に横浜洋銀取引所を通して為替相場に大失敗し一文無しになります。よっぽどこたえたのか横浜(日本)を離れ(55歳の時)二度と日本の地を踏むことは無かったそうです。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」


通貨主権獲得のために思い切った政策を打ち出し成功したのが、松方正義です。明治14年の政変で大隈重信が下野し、それまで大隈と対立していた大蔵省官僚松方正義が大蔵大臣となります。いわゆる「松方デフレーション政策」で財政収支を大幅に改善します。
一方でこの改革は大きな犠牲も伴い国民の大きな反感も持たれました。
※余談 江戸からの伝統で硬貨は四角で予定されていましたが、時の大隈重信が硬貨は丸い方が良いと主張し丸くなったそうです。

過去に学ばないものは
過ちを繰り返す
ジョージ・サンタヤーナ(19世紀のスペインの哲学者)

No.46 2月15日 二つの祖国

「中国残留日本人孤児」という単語が新聞テレビで大きく取り上げられて30年、当事者以外私たちの記憶から消えかかっています。
1986年(昭和60年)の今日から一週間、相鉄ジョイナスの広場で「中国残留日本人孤児」写真展が開催されました。

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来日「中国残留日本人孤児」とは、中国に残された日本人及びその子供達を現地中国で捜索し、日本の親戚探しのために訪日した人たちのことです。
戦前や戦中に旧満州(中国東北部)に開拓団として移り住んだ日本人の子ども達で、1945年の敗戦前後の混乱の中、その多くが肉親と生き別れるなどの理由で置き去りにされた人たちです。
昭和56年3月から始まり平成6年11月まで25回の訪日調査を行いました。この「中国残留日本人孤児」訪日調査をいち早く記録に撮ろうと決断し行動した横浜のカメラマンがいます。
浜口タカシさん、横浜市南区在住。1931年生まれの80歳を超えるご高齢ですが、昨年の東北大震災にもいち早く駆けつけ取材し写真展を開催する行動派です。彼は写真館のオーナーであると同時に、ジャーナリストでもあります。「大学闘争」「三里塚」の記録作品はいまだ伝説に残る報道写真です。
今回、1978年(昭和53年)5月に完成した相鉄ジョイナスで開催された神奈川新聞主催「二つの祖国 中国残留日本人孤児展」は、昭和57年の第二回訪日調査から孤児らを追いかけた第6回までの120枚と進行中の第7回訪日団の写真を加えた展示を行いました。
この訪日調査で日本に永住帰国した孤児は2,536人、同行家族は6779人にも上ります。日本語を話すことが出来ない彼らへの復帰プログラムは上手く効果をだすことができませんでした。72年の国交正常化以降にようやく実現した活動ですが、国民とは何かを現在も突きつけられている日本の戦後史の一断片です。訪日された方が全て肉親と出会えた訳ではありません。分からなかった方々は第二の祖国に帰って行きました。
その後も浜口さんは取材を続け、写真展を開催していきます。未だに終わらぬ戦争の記録でもあり、時代の狭間で悲劇を甘受してきた人々の歴史でもあります。

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二つの祖国に次ぐ写真集 写真展の記事

No.43 2月12日 “浮浪者狩り”

新聞記事の大見出しに、乾いたような嫌悪感と同時にやるせない無力感が襲った。
1983年(昭和58年)の今日、神奈川県警察の合同捜査本部は少年グループを傷害致死の疑いで逮捕した。
「横浜浮浪者襲撃殺人事件」の衝撃的報道だった。

青少年犯罪は時代の鏡だと思う。
70年代後半から80年代に入り、学校が崩壊し始める。
川崎の金属バット事件(1980年11月)が大きく報道されたが、社会はこの事件を教訓とすることが出来なかった。
自殺者が減らないと同様に異様な少年犯罪も減らないことはこの国の赤信号である。

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「横浜浮浪者襲撃殺人事件」は
横浜市南区内の二つの私立中学生を中心にしたグループ「恐舞連合」によるホームレス殺傷事件である。
彼らの合い言葉は「今夜、タコろうや!」だった。
中学2年生(当時14歳)3人、3年生(当時15歳)2人、定時制高校生(当時16歳)1人、その他無職少年(当時16歳)4人の計10人の少年たちは、マリナード地下街から始まって、関内駅周辺の植え込み、横浜スタジアム、山下公園、中華街、石の広場、寿町ドヤ街、国電石川駅まで決まったコースを巡回し「浮浪者襲撃」していた。
2月5日夜、横浜スタジアム周辺で7人に「おまえらのせいで横浜が汚くなるんだ」と叫びながら暴行、「今日はもう一つスカッとしないな」と話し合って、山下公園に移動し午後10時ころ青森県生まれの須藤泰造(60歳)さんに対し、集団で殴る蹴るの暴行を加え、さらに動けなくなったところを、数人がかりで抱き上げて、ゴミカゴの中に投げ入れて転がしたり引き回しそのまま放置して逃走。
須藤さんは通行人(観光客)の通報によって救急車で病院に収容されるが死亡する。肋骨四本骨折、内臓破裂だった。

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 (この事件が契機かどうかわかりませんが、山下公園はかなり木が伐採されます)
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 (私が高校生の頃は、山下公園はジャングルでした。入り口のホットドッグを売っている車だけが記憶に残っています)
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「浮浪者襲撃」の動機は実に恐ろしく単純だった。
中区元町を縄張りとするグループ「中華連合」に喧嘩で完璧に負け、その悔しさからケンカの練習台を弱者に向けたからだ。
警察の取調べに対して
「横浜を綺麗にするためゴミ掃除しただけ」
「乞食なんて生きてたって汚いだけで、しょうがないでしょ」
「乞食の味方をされるなんて、考えもしなかった」
「なぜこんなに騒ぐんです。乞食が減って喜んでるくせに」
と自供した。
(※乞食は差別的表現だが当時の事実としてそのまま表記する)
また「浮浪者が逃げ惑う姿が面白かった」
「退屈しのぎに浮浪者狩りを始めた」
「スリルがあった」とも自供した。
被害者の証言によると、暴行グループには女性が加わったときもあり、他に幾つか浮浪者狩り集団が存在し以前から暴行が行われていたという。
誰も気に留めていなかった。
見て見ぬフリをしていたという。
この事件に関しては
佐江衆一さんの「横浜ストリートライフ」に詳しい。

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【関連事件簿】悉皆網羅していません
昭和58年(1983)
★京都府で河川敷の野宿者に中学生グループ投石、ケガさせる。
★東京都で公園の野宿者、少年7人に襲われる。
★大阪府で中高生グループ、角材で野宿者襲う、2人ケガ。
★東京都で少年2人、寝ていた野宿者に火をつける。
昭和60年(1985)
★東京都板橋区の荒川河川敷で、無職少年(15〜19)4人と無職(20)の5人グループが、ホームレス(42)を金属バットやバールで袋だたきにして6ヶ月の重傷を負わせて橋の下に放置。
昭和61年(1986)
★野宿の日雇い作業員が、中・高校生とみられるグループに大型爆竹と、こぶし大の石で集団襲撃され、2人が失明。
昭和61年(1986)
★東京都新宿区の西戸山公園で、少年(19〜17)3人と見張り役の中学3年生女子2人、無職(22〜20)の12人が花火を至近距離から発射、投石、木刀で殴打、1人を失明させ逮捕。
★大阪市四天王寺境内で、中・高生3人組が、就寝中のホームレス5人をエアガンで襲い、傷害を負わせた。
★大阪府でサバイバルゲームとしてホームレスを襲撃、高校生を逮捕。
★大阪府で、中学3年生4人が他の襲撃事件をまねて、ホームレスを「早く死ね」と竹ぼうきなどで殴打。
昭和62年(1987)
★中学3年生5人、公園に野宿していたホームレスをからかい棒等で暴行、脳挫傷等の重傷を負わせる。
★兵庫県でホームレスに投石・放火した中学生5人補導。
★大阪府で釜ヶ崎の野宿労働者、中高校生らにエアガンなどで襲われる。
昭和63年(1988)
★東京都台東区山谷地区の路上で中学3年生2人高校1年生2人無職少年(16)2人の6人組、日雇い人夫をナイフで刺し2週間の傷害を負わせる。続いて公園で寝ていたホームレスを看板で殴って2週間の傷害を負わせ逮捕。「スカッとするため」と自供。
★神戸市大倉山公園で、中学生5人が野宿者2人に消火器の泡をかけて暴行し逮捕。「逃げ回るのが面白くてやった」
平成1年(1989)
★大阪府で戦争ゲームの中学生2人ホームレス襲撃し補導。
平成7年(1995年)
★道頓堀で複数の少年ホームレスを道頓堀川(水深3.1m)に投げこみ死亡。
★京都鴨川で未成年の作業員2人、住居不定の男性に言いがかりを付け、殴る蹴るの暴行。
★無職少年等3人公園のベンチに寝ていた被害者に「向こうに行け」「無視するとは何事だ」などと言いがかりを付け、頭部、顔面、腹部等を足蹴りするなどの暴行、膵臓破裂による出血性ショックにより死亡。
平成9年(1997)
★有職少年、無職少年2人、高校1年生の4人は公園で野宿していたホームレスに対し「ケラチョ狩り」と称して集団で殴る、蹴るの暴行、外傷性くも膜下出血により死亡。
平成12年(2000)
★大学生(18)、アルバイト店員(19)は、会社員(20)の3人、墨田区亀沢のJR総武線ガード下で就寝中のホームレスの男性を金属バットで殴打し1人死亡、4人が傷害。
「日々の生活にいらいらしていた。ホームレスを殴ったり蹴ったりすると気分がスカッとする」。
★高校1年生(15歳)、高校2年生2人(16歳、17歳)、成人男性(20歳)4人、歩道上で寝ていた路上生活者2名に対して、殴る蹴るの暴行を加え1名死亡、1名負傷。
平成14年(2002年)
★東村山で中2四人による注意されたホームレスに逆恨みで傷害致死事件
★熊谷・中2の三人によるホームレス暴行死事件
平成15年(2003年)
★長崎市で中学1年の男子生徒(当時12歳)が大型電器店から幼稚園児(4歳)を連れ出し、そこから4キロ離れた立体駐車場の屋上から全裸にして20メートル下に突き落として殺害。
平成16年(2004年)
★姫路で少年が放火、足の不自由なホームレス焼死事件
★長崎県佐世保市で小学6年の女子児童(当時11歳)が自分が通う小学校内で同級生の女子児童(12歳)をカッターナイフで殺害。
平成17年(2005年)
★姫路市内に住む少年4人のうち高校3年・A(当時18歳)、中学3年・B(当時15歳)火炎瓶を投げて路上生活者を殺害。

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

今日のエピソードは昨日に続き横浜を母港に活躍した太平洋航路の花形客船「龍田丸」です。
1943年(昭和18年)のこの日、日本郵船所属「龍田丸」は伊豆諸島の一つ御蔵島沖で米潜水艦「Tarpon」により雷撃を受け沈没しました。日本郵船龍田丸

昭和前期の海外旅行は客船が主力でした。特に開戦までの十数年、太平洋航路は日本客船の輝かしい時代でした。
戦前の日本を代表する太平洋航路(横浜ーサンフランシスコ間)の花形といえば、「浅間丸」とその姉妹船「龍田丸」、そして「鎌倉丸」です。
この三隻は他の客船を圧倒する豪華客船でした。
今日の主人公「龍田丸」は日本郵船船籍の建造番号451番の大型豪華客船です。総トン数16,875t全長178mで、スイス製スルザー型ディーゼル機関を4基搭載4軸プロペラシャフトの豪華客船でした。平常時の通常船舶保険等級はロイズ船級協会の最高船級評価を受けました。

浅間・龍田丸

第二次世界大戦で日本の商船は約2,300隻失われ、3万人の乗組員が戦場で亡くなります。
民間人でありながら戦争の最前線に立った人々の壮絶な歴史です。
「龍田丸」は「鎌倉丸」と対戦中に特別の任務を果たします。二隻は日英交換船として「安導券」を付与されアフリカと横浜を往復します。
龍田丸は昭和17年7月30日に横浜を出発し、上海、昭南(シンガポール)を経由してモザンピークの首都ロレンソマルケス港まで英国人を運び9月27日に横浜に戻ります。鎌倉丸は追いかけるように8月10日に横浜を発ち龍田丸と同じコースを辿り10月8日に帰港します。
「安導券」とは、
「交戦国が国籍の如何を問わず、個人もしくは船舶または中立国もしくは敵国に属する部隊またはその他の集団が、予め定められたる一定の場所に赴くを許せる事を証する文書である」
と戦時国際法の中で規定されたもので交戦国であっても互いに航行の安全が保証される船を指します。(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)
「安導券」を付与された船舶には二種類ありました。その一つが「交換船」です。開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船の事です。第二次世界大戦では、日米で二回延べ3隻、日英で一回二隻が仕立てられました。

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もう一つの「安導券」を付与された船舶は「救恤品輸送船」で、敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船のことです。延べ三隻(白山丸、星丸、阿波丸)が依頼を受け、慰問品を運びました。
この中で、日本郵船「阿波丸」は「安導券」を付与された船舶にも関わらず、台湾沖で米国潜水艦に魚雷攻撃を受け、一瞬にして2,000人を超える人命が失われました。1945年(昭和20年)4月1日のことです。
この悲劇は浅田次郎さんの「シエラザード」(講談社文庫)に小説としてみごとに描かれています。

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もう一つの「龍田丸」をめぐるエピソードは、レストラン「かをり」の物語です。日本初のホテルがあった居留地七十番に建つレストラン「かをり」の創業家 板倉作次郎さんは龍田丸の司厨長として乗船していました。(日本初のホテルについては2月20日にご紹介します)
横浜は戦後ニューグランドを軸にしたホテル系レストランと、日本郵船を代表とする客船料理人系の活躍でア・ラ・カルトを楽しむハマの洋食界をリードしてきました。
レストラン『グリル・エス』のオムライス
今は無き日本郵船ビル地下「オーシャン」の木村さんのクッキーは忘れられません。多くのお店が閉店しましたが、この横浜洋食の文化は他の洋食レストランにもしっかり受け継がれています。
※追記。台湾沖に沈んだ悲劇の「阿波丸」の初代は明治31年長崎で建造されました。1912年(明治45年)2月14日横浜港より桜の苗木6,040本を積みシアトルに向け出航した(皮肉にも)日米友好の船です。

No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語

1939年(昭和14年)のこの日、歌人高浜虚子と次女の星野立子(歌人)、そして新感覚派小説家で俳人の横光利一は船長粟田達哉氏の招きで改名された『鎌倉丸』に乗船し、豪華大型客船を楽しみました。
この『鎌倉丸』を巡っては、いくつもの物語があります。
今日はそのアウトラインをご紹介しましょう。(少し長文です)

(巨船鎌倉丸出帆の光景)横浜都市発展記念館蔵

『鎌倉丸』多くの物語のある戦前を代表する大型商船の一つです。
『鎌倉丸』を語る事は、
 日本の商船史の凝縮した1ページをも描き出すことが出来ます。

■物語1 神戸から横浜へ
1897年(明治30年)5月
日本郵船初代「鎌倉丸」はイギリスのワークマン・クラフト造船所で竣工しヨーロッパ航路に就航しました。
第一次世界対戦勃発(1914年)時には地中海に派遣された日本艦隊への物資輸送等に従事しました。
軍事徴用終了後、アメリカ東岸航路に就き1933年(昭和8年)に売却解体されます。
次の大型客船計画が解体6年前の1927年(昭和2年)に持ち上がります。
日本郵船は、大型商船を当時の二大造船所の一つ、川崎造船所(神戸)に発注していましたが計画が深刻な金融恐慌のために頓挫します。
当時、最先端造船所といえば、三菱造船長崎か川崎造船神戸でした。

川崎造船所は川崎重工の前身で、地名ではなく創業者の名をとったものです。
発注した内容は一本煙突で総トン数17,526t、長さ178m、幅23m、主機ディーゼル15,500馬力、最高速力20.6ノットの大型商船でした。
設計時の船名は『秩父丸』と命名されていました。
CHICHIBU-MARU』です。
川崎造船は1927年(昭和2年)3月に起った昭和金融恐慌でメインバンクの十五銀行が経営破綻し事業休止状況に追い込まれます。
そこで急遽
代替え造船所を探し、横浜船渠に決ります。
1927年7月発注8月に正式契約を取り交わし「川崎(神戸)」から「横濱」になります。
この『秩父丸』は横浜船渠にとって初の大型造船となりました。
横浜船渠は渋沢栄一が中心となって設立された造船所で、修理が主でしたのでビッグプロジェクトとなりました。

『秩父丸』の進水式は1929年(昭和4年)5月8日に行われ、翌1930年(昭和5年)3月10日に完成します。
初航海は横浜からサンフランシスコ航路で、少し遅れて就航した『龍田丸』と並び太平洋航路の良きライバルとなりました。『龍田丸』については明日エピソードをご紹介しましょう。
『秩父丸』は1938年(昭和13年)7月6日に太平洋横断100回の偉業を達成します。

この横浜船渠はその後、三菱重工横浜造船所となり現在のみなとみらいにある二つのドッグとして保存されています。
横浜船渠の代表作はこの『秩父丸』と『氷川丸』です。

■物語2 『秩父丸』から『鎌倉丸」へ

『秩父丸』は1939年(昭和14年)1月18日『鎌倉丸」に船名を変更します。
冒頭の高浜虚子らが招かれたのはおそらく『鎌倉丸』新命名パーティだったのでしょう。

同じ船籍会社で現役バリバリが名前を変更することは極めて異例の事です。そこには、1862年居留地39番で診療所を始めたヘボン(日本近代医術の創始者)が大きく関わっています。

ローマ字で
開国以来の異文化コミュニケーションギャップを引き起こします。

皆さんは名刺等にローマ字表記していると思います。この時のローマ字表記は「ヘボン式」ですか?「訓令式」ですか?
21世紀になった今日でも、「ヘボン式」「訓令式」の混用が混乱をもたらしています。文部科学省は訓令式を妥当と考えています。

外務省はパスポート申請でヘボン式使用を強制しています。非ヘボン式で記入したい場合は別紙申出書が必要になります。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/02/2315/down/hihebon.pdf

このヘボン式か訓令式か、がどう『鎌倉丸」に関係があるのでしょうか?
1937年(昭和12年)まで、船舶の欧文表記はヘボン式ローマ字で書かれていました。
『秩父丸』はCHICHIBU-MARUと表記しますが、
この年から内閣訓令式(日本式)のTITIBU-MARUに改めるよう通達がでます。
ところが、英語に詳しいかたならお分かりかと思いますが、TITは「おっぱい=ちち」というスラングに読めるということから使用を中止しようということになります。
秩父(ちちぶ)なので音的にはぴったり!なんて冗談を言っている場合ではありません。

※一説では今上天皇の叔父にあたる秩父宮雍仁親王の名を避けるために改名の理由をつけたのではないかともいわれています。

そして『秩父丸』は異例の『鎌倉丸』に改名し第二の人生を歩み始めます。

■日本の多くの船名は神社に因みました。
氷川丸も埼玉県さいたま市の「氷川神社」から命名されたものです。

マリンタワーから見た氷川丸

物語3は「安導券」についてです。
「安導券」は明日の『龍田丸』でも共通するテーマですので明日ご紹介します。
物語4はまさに最後の物語。
1943年(昭和18年)『鎌倉丸」撃沈までの悲劇の物語です。この物語は別の機会に譲ることにしましょう。

No.34 ‎2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

日本人が初めて幕末太平洋を横断した「咸臨丸」に関わった異才3人の人物に大変関心があります。
太平洋横断の時に乗船した勝海舟と福沢諭吉、
そして幕府の緊急事態に「咸臨丸」で対馬に派遣された外国奉行になりたての
小栗忠順です。
終生 勝海舟のライバルで、
明暗を分けた人生を歩んだ小栗忠順のエピソードを紹介します。

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咸臨丸が太平洋往復という大役を終え、神奈川港(横浜)近辺の警備についていた頃、日本周辺は緊張感に包まれていました。
欧米列強がアジア市場を巡って狙いの焦点を日本に合わせてきたのです。
万延2年(1861年3月13日)のこの日、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の尾崎浦に投錨し一方的に上陸し領土租借を求める事件が起きました。
ポサドニック号事件またはロシア軍艦対馬占領事件と呼ばれます。

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ポサドニック号事件は、アジア進出に遅れをとったロシアの焦りから起った事件でした。ロシア(ソ連時代も含め)にとって不凍港の確保は二世紀にわたる願望です。幕末期、ペリーに限らずロシアも何度か日本を訪れ開港を求めますが上手く運びません。
ロシアではなまぬるい政府に業を煮やした軍部が政府の意に反し南下作戦をとります。そこには宿命の敵対国イギリスの影がありました。当時英露関係は1853年に起ったクリミア戦争(〜56年)以来、かなり緊迫していました。
(この緊張感が日露戦争につながるのですが)

実は、ポサドニック号が対馬に上陸する二年前(1859年安政6年)にイギリスの軍艦が対馬に上陸し対馬の浅茅湾測量を強行します。ちょうど英国によるアロー号事件の真っ最中でした。
この事件がロシアに伝わり軍部がナーバスに反応したことも背景にありました。
対馬が英露覇権の最前線となった訳です。
対馬にロシアの拠点(租界)を作るために軍艦ポサドニック号を差し向けます。初動のロシアによる砲艦外交は上手く行きます。簡単に上陸でき、対馬藩を恫喝します。
しかしこの砲艦外交はその後の日露関係に痛恨のダメージとなります。

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九州広域の管轄部門、長崎奉行が乗り出しますが決裂します。
そこでようやく幕府は重い腰を上げます。
箱館奉行・村垣範正に、函館駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求すると同時に外国奉行になったばかりの小栗忠順を江戸から派遣することにします。
この時に彼を搬送したのが神奈川沖で警備にあたっていた咸臨丸です。彼はその場しのぎでは解決できない国際状況を認識していた日本人の一人ですがロシアとの交渉は上手く行きませんでした。この外交方針で外国奉行から更迭されてしまいます。小栗はこの失敗を糧に復活します。
ポサドニック号事件は、結局英国軍艦によってロシア軍を牽制することによってロシアは撤退します。対馬を舞台に日英露の国際紛争勃発寸前まで緊張感が高まった事件でした。
この交渉にある意味失敗したその後小栗は軍艦奉行になりフランスと交渉し横須賀製鉄所を完成させました。
4回にわたって罷免されても幕府要職である勘定奉行になった人物は彼だけです。英国のしたたかさに対し幕末幕府を支援したフランスの協力を引き出したのは小栗の外交能力の優秀さといえるでしょう。
しかし優秀が故に幕府内部(特に勝海舟)に疎まれ、最後は維新直前に官軍の命で斬首されてしまいますが幕末希有の人材といえるでしょう。

彼の生涯の実に面白いので興味のある方はネットか
「覚悟の人 小栗上野介忠順伝 (角川文庫)700円」 あたりを読まれると良いでしょう。
近年ロシアの資料がかなり公開され、この対馬事件の新しい事実が見えてきました。英国公使オールコックと露公使ゴシケービッチの高度な情報戦も行われていたようです。ロシアは英国が対馬を軸に日本占領を狙っているとささやき、英国は江戸で起った(一説では起こした)東禅寺事件東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺)を口実にイギリス有利の条件を幕府に要求し対馬事件は英国に有利な結果に落ち着きます。

※ちなみに
このポサドニック号事件は日英露の関係にとどまらず、対馬藩が築いてきた日朝関係の変化のキッカケにもなっていきます。近代「征韓論」の原点ともいえる事件でした。これらの史実を調べていて驚くのは、対馬と江戸との交渉が頻繁に行われていることです。さらには、対馬藩内部抗争で、尊皇攘夷派藩士が国許から江戸に行き江戸詰家老を殺害するという実力行使に出ることで事態が大きく変わっていくことです。幕末がテロルの時代であった一つの事例といえます。(2017年7月加筆修正)

今日番外編で咸臨丸

No.438 神奈川奉行入門