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第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

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前回、
五雲亭貞秀が描いた代表作の一つ「横浜鉄橋之図」から野毛近辺をクローズアップして風景を読み解いてみました。今回も引き続き、「横浜鉄橋之図」鉄の橋の下を通過する荷物満載の船と横浜製鉄所、魚市場あたりを眺めてみることにします。
横浜が開港して、外国人の居留地と日本人街が形成されます。治水以上の理由と居留地を出島化する目的で中村川から湾に向けてまっすぐ「堀川」が掘削されます。
四方を囲まれた「開港場」は、幾つかの橋で結ばれます。その代表となったのが、「横浜鉄橋之図」に描かれた鉄の橋「吉田橋」です。
開港時に突貫工事で東海道筋「芝生村」から帷子川河口を越え野毛坂を越え野毛村、子之神社脇を抜けて大岡川に架かる「野毛橋」を渡り吉田町に至り、関内と呼ばれた開港場への橋が「吉田橋」です。開港時に架けられたこの橋は1869年(明治2年)10月に灯台技師R・H・ブラントンの設計によって鉄の橋に生まれ変わり、関内外の名所となります。
この吉田橋は日本初の長さ24m、幅6mの無橋脚鉄製トラス橋でした。一時期日本初の鉄の橋と表現されましたが現在は長崎に次ぐ二番目の橋となっています。
構造としては初の下路ダブルワーレントラス桁となっています。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

(水運船)
「横浜鉄橋」の下を一隻の水運船が通過しようとしています。吉田橋の下を通り、何か石のような荷物を積み石川町方面に船を進めていますが、積荷はなんでしょうか?
石?
この船が進む先には、横浜製鉄所がありますから、推測ですが「木炭」か「石炭」だと想像します。幕末には石炭がすでに生産されていますので、横浜港に係留された船から運び出されたものかもしれません。
木炭、鉄鉱石かもしれません。原材料が川を使って運ばれている興味深い光景です。

<横浜製鉄所>
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)


No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所


(橋上の人々)
吉田橋の袂から橋上まで様々な人々が描かれています。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

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・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく

No.401 短くも美しく


外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)


開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭

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今年は横浜市開港記念会館が開館100周年を迎えます。

開港記念会館

1917年(大正6年)7月1日のことです。今年は様々な記念行事が予定されているようです。
この横浜市開港記念会館、竣工当時は「開港記念横浜会館」呼ばれました。
さらに時代を遡れば、当初は「町会所」その後「横浜貿易商組合会館」「横浜会館」となり明治の横浜の商工業界(現在の商工会議所)の<シンボル>でもありました。
残念なことに横濱会館は明治39年に焼失し再建が望まれ完成したのがこの「開港記念横浜会館」です。

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

戦前、神奈川県、横浜市など<官>に対して民のモノ言う組織としてアクティブな活動をしてきたのが横浜商工会議所です。開港記念会館は横浜商工会議所の歴史とともに歩んできました。
今回から何回かに分けてこの開港記念会館が完成した大正時代の横浜について自分なりに整理をしていきます。

(大正という時代)
1912年から1926年を元号から「大正時代」と呼びます。近現代の中で最も短い期間ですが、実に変化に富んだ時代でもありました。歴史業界(?)でも大正再評価ブームのようです。
この大正時代 横浜はどんな街だったのだろうか?これが私の歴史的関心事の一つです。
歴史を考える基本作業として 幾つか切り口を設定してみました。
・小横浜
横浜は幕末から開港の拠点となります。
その後、明治維新を迎え、国際港として発展していきますが、<横浜>の町としての行政単位は狭いエリアでした。
国際都市が発展していく過程で、周辺地域が港を支える市街地として<宅地化>していきます。そこで横浜は明治期の終わりまでに二回の市域拡張を行います。
■市域拡張一覧
・横浜市制時(明治22年4月1日)   5.40(平方キロメートル)
・第1次市域拡張(明治34年4月1日)  24.8
・第2次市域拡張(明治44年4月1日)  36.71
・第3次市域拡張(昭和2年4月1日※) 133.88
(※昭和2年10月1日区制施行)
・第4次市域拡張(昭和11年10月1日) 168.02
・第5次市域拡張(昭和12年4月1日)  173.18
・第6次市域拡張(昭和14年4月1日) 400.97
■第二次市域拡張
「久良岐郡屏風浦村」より<大字磯子><滝頭><岡(旧禅馬村の地域)>。
「大岡川村」より<大字堀之内><井土ヶ谷><蒔田><下大岡><弘明寺>。
「橘樹郡保土ケ谷町」より<大字岩間字池上><東台><外荒具><道上><塩田><反町><宮下><殿田><関面><久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)>を編入します。
市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² に過ぎませんでした。
開校以来40年近い時が流れ、明治34年に一回目の市域拡張を行いますが面積は24.8km²。
二回目でも総面積36.71km²でした。
面積は現在の横浜市域の十分の一以下です。
横浜市は 明治・大正、昭和に入るまで小さな街だったのです。
大正時代という視点で考えると、横浜市は明治期に二回拡張を行い、昭和まで拡張されませんでした。この第二次市域拡張エリアが、初期横浜時代の市域でした。大正から昭和にかけて充実する「市電網」は
ほぼ第二次市域拡張エリアと重なっています。

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

■比較資料として「神戸市」の市域拡張も紹介しておきます
・明治22年4月1日  21.28(平方キロメートル)
※明治22年は全国で市制制度が施行され約40の市が誕生しました。
・明治29年4月1日  37.02
・大正9年4月1日  63.58
・昭和4年4月1日  83.06
・昭和16年7月1日  115.05
・昭和22年3月1日  390.50
・昭和25年4月1日  404.66
・昭和33年2月1日  529.58

(貿易特区)
最近「特区」が話題になっています。明治期に特区といった用語はありませんでしたが、横浜市は開港以来、国際貿易特区として重要な役割を担ってきました。帝都東京に近く小さくも交易港として日本一の取引を誇ります。
ところが横浜港は 港湾機能が国際的には<不評>でした。
港が北向きということもあり強い北風の影響がありました。
明治期に完成した<鉄桟橋>も20世紀に入り急速に発展した巨艦商船時代に対応できず、相変わらず沖に停泊、艀(はしけ)港内を走り回る状況で、新しい大型港湾施設が切望されていました。
実は明治維新以降の日本は国内最大の内戦<西南戦争><日清戦争><日露戦争>など、戦費負担のために国内インフラ整備が追いつかない経済状態にありました。
ようやく新しい港湾施設<新港埠頭>計画が明治後期(1899年)に持ち上がり大正初め(1917年)に完成します。
鉄桟橋(現大さん橋)の改良と、新しい港湾施設(新港埠頭)の完成によって横浜市は新しいステージを迎えます。

■新港埠頭の時代
大正期の横浜、特徴の一つが新しい国際港としての港湾施設の完成<新港埠頭の稼働>です。
この新港埠頭の稼働に伴い、鉄道も埠頭内まで開通。
日本全体も鉄道時代の幕開きとなり、物流革新が横浜港を後押しします。
新港埠頭と幹線を繋いだ鉄道の名残が現在の人気ルート「汽車道」です。

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
 

第887話【大桟橋の風景】旅立ちの日

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空港は<そらのみなと>、
人類の歴史は<水の港>から始まりこの歴史の方が圧倒的に長いが、次第に<水の港>は遠くなっていく。
今でも船出には
今生の別れとなってしまうかもしれないという思いが漂うのは何故だろう。
だから見送りにも特別な感情が流れるのかもしれない。

そういえば最近
<旅立ちの見送り>が激減した。

小学生のころ、横浜大桟橋から親戚を見送った記憶が焼き付いている。カルフォルニアの仏教寺院に<僧侶>として骨を埋めることになり、移民としてアメリカに向かう家族を親戚と見送ることになった。私はことの重大性には気づいていなかったが、母が泣く姿を覚えている。
この時、船側から知り合いを見つけてはテープを投げる見送りの儀式が始まる。桟橋では風に流されながらも飛んでくるテープの片端を追い求め、つかの間のつながりと別れを味わう。
今でも
テープがプツンと切れ、切れ端がフワッと浮き上がっていく感触が残っている。

<絵葉書に見る大桟橋>
ここに大正期を中心に船出風景の絵葉書を紹介する。
戦前、横浜港が果たした役割は大きかった。首都圏、さらには東日本の国際港として外国との窓口となっていたからだ。
横浜港からは<移民>も多く旅立った。
留学、赴任、視察、商談、遊学 他
戦前の日本を支えたキーパーソンは横浜港に一度は立っていた!といっても過言ではない。

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

大さん橋の見える風景

第818話【横浜2345】大横浜の時代

第868話 【ある日の氷川丸】

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山下公園に係留されている氷川丸(ひかわまる)
1930年(昭和5年)竣工。日本郵船の12,000t級貨客船だ。
北太平洋航路で活躍、戦後まで残った貴重な船である。
現在は博物館船として公開され国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。
ここに数枚の係留された氷川丸風景を紹介する。 これらの風景の違いがお分かりになるだろうか?
氷川丸は、
1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港し10月1日に横浜・3日に神戸着で最終航海となった後、横浜港に戻ってその後の処置を待つ身の上となった。廃船の計画も出たが、各方面からの熱いリクエストがあり存続が決定。
翌年の1961年(昭和36年)に ユースホステルとして再登場した。この時、船体下部が黄緑色に塗られた。
その後、繋留のために作られた<桟橋>先端に1963年(昭和38年)<白灯台>が設置された。
これに関する顛末は
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)

No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)


1960年代以降の「氷川丸」も様々な表情を変化させながら現在に至っている。
85年の輝かしい歴史を辿るには
「氷川丸ものがたり」は最新刊だ。

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

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戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻

■1905年(明治38年)10月23日lightm38%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f316light%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99m38m38%e6%96%b0%e8%81%9e%e8%a8%98%e4%ba%8b 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。

○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日lightt%e5%85%83%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f013-1 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99009light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99017
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。light20150423115800%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%bd%9c%e6%b0%b4%e8%89%a6%e6%88%a6%e5%88%a9%e5%93%81
■1919年(大正8年)10月28日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143751light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143801
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs2%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8002
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d038light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d041
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs5%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8006
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs8%e5%b9%b420150508141624
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs11%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99013
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。light2016%e5%b9%b407%e6%9c%8805%e6%97%a501%e6%99%8216%e5%88%8611%e7%a7%92
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日lights15%e7%b4%80%e5%85%83%e4%ba%8c%e5%8d%83%e5%85%ad%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f017-1light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e8%a8%98%e4%ba%8b
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286

第848話 1935年(昭和10年)7月15日瑞穂駅開業

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1935年(昭和10年)7月15日
「新外国貿易地帯貨物専門取扱駅(瑞穂駅)が新設開業する。(商工会議所百年)」
横浜港は発展とともに次々と<桟橋・埠頭>が増設されてきました。
初期貿易港横浜は1894年<開港場>の中央に鉄桟橋が整備され最初の国際港となります。
その後 国内外の交易や人の往来が急増する中、
桟橋の拡張に加え新たな<埠頭>が次々と建設されていきます。11751426_1017387401638697_8188418887701345819_n
「大桟橋」1894年
「新港ふ頭」 1917年
「山内ふ頭」 1932年
「高島ふ頭」 1930年1号さん橋完成
「瑞穂ふ頭」 1945年
「山下ふ頭」 1963年
「出田町ふ頭」1963年
 No.447 いずたとばななの物語
「本牧ふ頭」 1970年
「大黒ふ頭」 1990年2期埋立完成
「南本牧ふ頭」1990年着工

これらの<ふ頭>造成には鉄道網が欠かせませんでした。横浜港最初の本格的な桟橋となった税関桟橋とも呼ばれた大桟橋にも当初、直結の線路が設置されました。その後の「新港ふ頭」「山内ふ頭」「高島ふ頭」なども鉄道線の敷設と一緒に開発が進みます。
上記の通り、貨物支線の瑞穂線は貨物線「入江駅」から分岐し瑞穂ふ頭に入る路線です。11707612_1017394471637990_5699360022180991311_n lightimg089この「瑞穂駅」はふ頭が完成する前、工事中の1935年(昭和10年)に開設されます。

(幻のふ頭)
この中で幻(まぼろし)といっては少しオーバーですが、
1925年(大正14年)に着工し、終戦の年の1945年(昭和20年)にようやく完成した「瑞穂ふ頭」は完成したにもかかわらず未だ日本船が着岸することがない幻のふ頭です。

この瑞穂駅のある「瑞穂ふ頭」は、
1945年(昭和20年)9月にいち早く米軍によってが接収され、日本側の利用が一切禁止されます。

1947年(昭和22年)8月15日
瑞穂支線に限り、日本側の使用が許可されますが、実質は米軍用の貨物を国鉄が取り扱うようになっただけでした。
1958年(昭和33年)には瑞穂支線が米軍専用線となり線路は残りましたが駅は廃止されます。

(ノースピア)
この「瑞穂ふ頭」は、米軍が接収して以来 通称「ノース・ピア」と呼ばれてきました。
1980年代まで国内で発行されていた英文マップには大さん橋がSouth Pierと表記されていました。
瑞穂埠頭が 北埠頭(North Pier)
大桟橋が 南埠頭(South Pier)
新港埠頭が 中央埠頭(Center pier)

(返還)
この一帯、返還の動きがありますが、完全には返還されていません。
2000年(平成12年)3月31日に「神奈川ミルクプラント」が返還され、陸側と埠頭を結ぶ瑞穂橋及び埠頭外周の港湾道路は2009年3月31日に返還されました。
ここには横浜港内でも存在感のある風力発電所「ハマウィング」が設置されています。
※2009年3月31日以前は瑞穂橋から写真撮影も禁止でしたが、現在は橋までなら撮影していても中止されません。奥にある米軍施設の入口にカメラを向けると<警備員>にお決まりのように制止されます。

(過去の7月15日ブログ)
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=410
1878年(明治11年)7月15日(月)の今日、
箱根宮ノ下に日本初のリゾートホテル「富士屋ホテル」が開業しました。
富士屋ホテルは創業時、深く横浜と関わっていました。
※ここで 箱根富士屋ホテルと横浜の関係を紹介しています。

第843話 1898年(明治31年)7月8日開港港則公布

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1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則が(勅令)公布されました。

開港港則

開港港則

第一条 左ニ記載スル外国通称ヲ許シタル諸港ノ経界ハ左ノ如ク之ヲ定ム
「横浜ノ港界ハ、十二天(マンダリン・ブラフ)ヨリ燈船マデ、夫ヨリ正北ニ向イ鶴見川口ノ東岸マデ引キタル一線内ニ含マル」と規程されました。(勅令第百三十九号)官報7月8日
港湾に関する原則的なことを決めた国の法律です。
第一条には、上記の通り、横浜港の範囲が明記されました。

赤線が「横浜港の範囲」

赤線が「横浜港の範囲」

「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」

横浜“港はどこからどこまで”というごく当たり前のルールが初めて規定されました。
外国との港湾に関する規則は
1869年5月(明治2年)に大阪を国際港と認め開港する際に4カ国領事と協議し「大阪港規則」を決定し布告します。明治政府になって初めての<港則>の成立です。

ところが、この「大阪港規則」は、曖昧な部分が多く、例えば港の境界が示されていませんでした。つまり外国船が入港する際の停泊地<碇泊位置>に関する規定が無く、乱暴に言えば何処に停泊しても規制できないものでした。
当然、様々なシーンで日本と外国、そして外国同士の紛争が多発します。ルールが曖昧なゆえに各国の思惑がまかり通る、緊迫した港湾行政が全国の<開港場>で行われ、特に最大の開港場であった横浜居留地がクローズアップされます。
当時明治政府は、不平等条約を抜本的に改定することを目的としていたため、港湾規則に関しても、現行ルール(不平等条約下)での運用で紛争を乗り切ろうとしていました。
現実に起こる紛争は国レベルから港の直接管轄者である<県>に預けてしまいます。
横浜港を例に取れば 港湾行政に神奈川県・税関(大蔵省)・外務省・内務省、(後に横浜市)など関係者が関わっている状態が長く続きます。
ここに、居留地内の諸外国のパワーバランスが加わり、事態はかなり複雑な様相を呈します。
幕末、南北戦争で日本(横浜)で静かにしていたアメリカが明治に入り、俄然発言力を増してきます。明治初頭、居留地自治をめぐりイギリスとアメリカの主導権争いは明治横浜の様々な政策に影響を及ぼします。
明治期の<神奈川県令・知事>は日本の外交政策の最前線に立たされた役職なので、個々に追っていくと知事によって個性も出て面白い。
港の規則に話を戻します。
港の範囲を示す国内のルールは1870年(明治3年)に「横浜港内規則」によって規定されていましたが、あくまで列強が<参考>にしていたルールで、暗黙の了解、慣例化されていたルールだったようです。
ところが事態はこの慣例が次第に破られていきます。

いろいろ調べてみると、諸外国の商船が勝手に貿易を始める<税関>から見れば密貿易・脱税にあたりますから 当然対処しようと考えます。税関にとって港の境界は生命線でもありますから、当然国の問題として政府に何とかしろ!と上申します。
ところが、政府は事態を明確にせず、不透明なまま問題を先送りします。これは政府が怠慢であった訳ではなく、天下の不平等条約を元から改定したい政府にとって、不平等の一部で諸外国と交渉し<妥協>を強いられることを嫌ったからです。ここで港湾規則制定が転機を迎えます。

外務大臣に大隈重信が就任します。

大隈重信

大隈重信

彼は、港湾ルールの早期確定(制定)のため<不平等条約撤廃>とは分離して交渉にあたります。
これが横浜港<大築港計画>のキッカケになりました。
大隈は、かねて懸案であった横浜港の整備を国が責任をもって行うから、港の使い方も同時に考えましょう!
という方策を示します。
→第一期横浜港築港計画が1890年に始まります。
この横浜港築港計画に関しては、国内問題として内務省と外務省、さらには横浜税関(大蔵省)・神奈川県を巻き込んだ論争(と抗争の間くらい)があり
日本各地の築港計画に関わったオランダとの競争があった結果、英国のパーマー設計で築港計画が行われます。
時代は、開港以来30年もの時が流れ、世界の海運状況が劇的に変化していました。
大型商船が世界各国で増産され、大海運時代が到来していたのです。
港湾ルールの早期確定を狙った大隈のチャレンジは国内外の議論沸騰と<大隈の襲撃事件>によって挫折します。しかし、一度始まった港湾ルール策定の流れは国内外のニーズとも合致し、
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則 勅令 という形で結集することになりました。
そしてこの「開港港則」にもとづき「横浜港規定」が設定されさらに詳細な港のルールが明文化されていきます。
少し後半端折った感があります。「開港港則」制定への道のりは実に興味深い事項です。ここには作家有島武郎の父、横浜税関長有島武や実は明治以降にも大活躍した後藤象二郎らも登場し、さらに資料を読み込んでみたいエピソードです。
また、この「開港港則」における<横浜港の範囲>が後の東京・横浜開港闘争!?にも重要な役割を担ってきます。
今日はここまでとします。

(過去の7月8日ブログ)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=417
1958年(昭和33年)7月8日の今日
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの …

(参考資料)

■開港港則は

港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として制定された法律(1948公布)。本法制定以前に存在した旧開港港則(1898年公布の勅令)が,開港のみを対象とし,また関税や検疫事務に関する規定を含んでいたのに対して,本法は,その内容を交通警察的見地からの規定に純化するとともに,その適用対象を開港以外の港も含め港一般に拡張した。適用対象となる港およびその区域は政令(港則法施行令)によって定められることとされており,1997年現在その数は500余港となっている。
■開港港則中改正
明治31年勅令139号として開港港則が制定されました。本則は開港(海外との貿易が可能とされた港)における船舶交通と衞生上の安全を図ることを目的としていました。また、開港の指定が同則の第1条でなさえていたことから、開港の指定は、同則の改定として実施されました。

【芋づる横浜】輿地誌略(前編)

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明治初期に出版された地理の本があります。
内田正雄という人物が編集した「輿地誌略」です。lightP5050076明治初期の代表的な地理の教科書として発行され大ベストセラーとなりました。「近代デジタルライブラリー(画像)」や「神奈川大学のデジタルライブラリー(PDF)」で読むことができます。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4547
文章は漢字カナ混じりなのでちょっと難解に感じるかもしれませんが、図録がすごい!みているだけでもその知識量・レベルの高さが実感できます。スクリーンショット 2016-05-05 16.13.21 lightP5050075「輿地誌略」は当時、
福澤諭吉の『学問のすゝめ』
中村正直の『西国立志編』」と並んで
明治の三書と呼ばれました。これらの書籍は全国津々浦々まで届けられました。明治維新直後の日本人の<知識欲>の高さを表しています。
『学問のすゝめ』は1872年(明治5年)2月初編発行、1876年(明治9年)11月一七編で完結。当時最も売れた書籍といわれ、福沢本人も最終的には300万部以上売れたと自著で述べるほどでした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card47061.html
『西国立志編』は、イギリスで1859年に発行された S =スマイルズの著「Self Help(自助論)」を訳したもので、1871年(明治4年)に刊行されました。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/saikoku/kaisei/

「輿地誌略」
輿地誌略は4編11巻12冊(巻11だけが上下2冊)から成っています。
第一編
巻一 序 天文部 地理部 邦制部 亜細亜洲上(総論・日本)
巻二 亜細亜洲中 中国・シベリア。東南アジア・南アジア
巻三 亜細亜洲下 ペルシア・トルキスタン・トルコ(小アジア)・アラビア
第二編
巻四 欧羅巴洲之部一 ヨーロッパ総論・イギリス
巻五 欧羅巴洲之部二 フランス・オランダ・ベルギー・スペイン・ポルトガル
巻六 欧羅巴洲之部三 ドイツ総論・プロシア・オーストリア・デンマーク・スウェーデン及びノルウェー
巻七 欧羅巴洲之部四 ロシア・スイス・イタリア・ギリシア・トルコ・ルーマニア
第三編
巻八 亜非利加洲(上) アフリカ総論・エジプト・バルバリー総説・西北岸諸島
巷九 亜非利加洲(下) セネガンビア・スーダン・ギニア総説・ホッテントット.ケープコロニー・ケープ北部・東岸諸部総説・大湖地方・マダガスカル
第四編
巻十 亜米利加洲(上) アメリカ総論・北アメリカ
巻十一 (上) 亜米利加洲(中)中アメリカ・西インド諸島・南アメリカ総論
巻十一 (下) 亜米利加洲(下)南アメリカ
巻一十二 阿西阿尼亜洲・南極洲
ほぼ全世界を網羅しています。しかも第一編巻一で「天文部 地理部 邦制部」という世界地理を学ぶ上で基本知識に触れています。編集者が内田正雄という人物です。天賦の才能があったからだと思いますが、きっかけは幕末にヨーロッパ(オランダ・フランス)留学でした。
ここには多くの図版が使われています。描いたのが川上寛(川上冬崖)明治洋画壇の重鎮で、画塾を開き西洋画の普及に
努めた一方、陸軍参謀本部地図課の職員として、フランス式近代地図として名高い『二万分の一迅速測図』の作成に画学の面から指導的役割を果たした人です。彼に関しては、明治期の欧米諸国特に英仏独のモジュール競争に巻き込まれた<謎の死>が残されています。
(内田正雄)
Wikipedia「内田 正雄(うちだ まさお、1839年1月5日(天保9年11月20日)〜1876年(明治9年)2月1日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の洋学者。旧幕臣。通称・恒次郎。内田恒次郎昌平黌、長崎海軍伝習所で学び、文久2年(1862年)にオランダ留学。明治維新後、大学南校で教える。官版世界地理書『輿地誌略』を刊行した。」とあります。
内田 正雄は小さい頃から優秀で、オランダ語と数学を身につけます。軍艦操練所教授方となり、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」を受け取るために15人の<留学生>を率いてオランダに向かいます。
この時のメンバーには榎本武揚・赤松則良・澤太郎左衛門・西周・津田真道らがいました。
内田 正雄はこのオランダ渡航時に厖大な資料を入手し自らスケッチも多く残したことがこの「輿地誌略」のベースになっていきます。
先人の資料収集力、咸臨丸の福沢諭吉といい、内田正雄(恒次郎)といい、明治初期の「米欧 回覧実記」をまとめ上げた久米邦武など、驚くべき俯瞰力!です。比べちゃいけないが、近年の代議士の研修旅行とは大違い。(比べる方が失礼か)
(後編へ)

【横浜の風景】ラ・マルセイエーズ

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ここに一枚の写真がある。lightimg194埠頭客船日本に駐留していた米軍軍人の家族がオークションに出したスクラップに混じっていた。200枚位の中身はほとんど個人的写真で、かなり安価だったがはっきり言って史料としては<失敗>だったがこの一枚は興味深い。
この写真は横浜港の埠頭に着岸する寸前のラ・マルセイエーズ号と思われる。
撮影時期は不明だが、調べ始めると様々な物語が芋づるのように登場してきた。一枚の写真から探し出せたラ・マルセイエーズ号横浜着岸物語を紹介しよう。
いつ頃か?
ラ・マルセイエーズ号の就航期間は限られていたので ある程度絞り込むことができた。
大型客船「La Marseillaise」号
戦後フランス(マルセイユ)と日本(アジア)を繋ぐ極東航路に就航したのが大型客船「La Marseillaise」号。
1949年に建造され、17,408総トンの真っ白なフォルムが当時の横浜市民を魅了したらしい。就航期間がわかる一次資料がなく傍系資料をつなぎ合わせてみると
ラ・マルセイエーズ号の極東航路就航期間は建造年の1949年(昭和24年)から1953年(昭和28年)5月16日横浜に最後の入港をしていることがわかった。
この時期はちょうど朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)と重なる。
まず「La Marseillaise」号の生涯に触れておこう。
第二次世界大戦直前に計画されたが、ドイツのフランス侵攻によって中止、戦後建造が開始され1949年に完成、「La Marseillaise」号となる。
1957年に「アロサ・スカイArosa Sky」、
1958年に「ビアンカC. Bianca C.」と改名。
1961年カリブ海クルーズ中に火災が発生して全壊し廃船となる。
「La Marseillaise」号として極東航路に就航していた約4年間、
この船をめぐる最大の物語は日仏交流の一環として実施された第一回フランス政府給費留学生の派遣だろう。
冒頭にも記したように、米ソ冷戦のアジアにおける衝突が起きる中、日本国内の米軍基地がフル稼働していた。日本が朝鮮半島の最前線への<補給廠>として機能していた時代である。
この間、欧州が欧州戦線の復興に手間取っていたが、アジアへの視線を忘れていたわけでは無かった。とりわけフランスはアジアの文化拠点として日本を重視していた。
手元にある資料だけだが「La Marseillaise」号が横浜に寄港した足跡は、
※1949年(昭和24年)11月28日
リヨン生糸協会副会長 エドワード=ピフ「ラ・マルセイエーズ」で来日
※1950年6月3日
タイ国王夫妻「ラ・マルセイエーズ」で来日
※※1950年6月4日 午後10時 ラ・マルセイエーズ号横浜発
第1回目のフランス政府給費留学生が乗船する。
※1951年(昭和26年)8月15日
朝八時横浜入港のフランス船ラ・マルセイエーズ号で芸術院会員川島理一郎は約六カ月間パリ画壇を視察して帰朝した。
※1952年1月19日
カンボジア国王ノルドン=シハヌク日本観光のため「ラ・マルセイエーズ」で来日
※1952年(昭和27年)4月6日
朝鮮戦争で戦死したフランス兵21体の送還式「ラ・マルセイエーズ」で執行。リッジウェイ大将参列
昭和20年代の日本は<洋行>がかなり困難な時代だった。
来日する外国人は多かったが、出国する日本人はかなり限られていた。
このような状況の中で、
復活したフランス政府給費留学生制度の戦後第一回に選ばれた人達が
1950年6月4日午後10時に横浜港を出港したラ・マルセイエーズ号に乗船しフランスに向かった。
そもそもフランス政府給費留学生制度は戦前の1932年から1940年まで行われていたが戦争で休止、戦後日仏関係者の努力で第一回のフランス政府給費留学生制度が復活した。
第一回のメンバーに選ばれた多くが教授・助教授クラスの人々だった。
吉川逸治(美術史)
森有正(哲学)
吉阪隆正(建築)
田中希代子(ピアニスト)
今井俊満(画家)
ここに選ばれた彼らとは別に1948年に来日し布教活動を始めていたイエズス会 アレクシオ・ウッサン神父により、将来を嘱望される青年数名をフランスのカソリック大学に留学させることが計画され、三雲夏生(慶大卒)、三雲昂(東大卒)、鎌田正夫(東大卒)そして若き遠藤周作(慶大卒)らが選ばれた。
遠藤周作は自著「仏蘭西にいく船に乗って」の中でこの時の様子を書いている。
「ラ・マルセイエーズ号とは当時 ヨーロッパと横浜とを往復する唯一の外国船で、日本郵船も大阪商船も戦争のためにこっぴどくやられていたから,これ以外に乗る船はなかったのだ。」
「船賃が一番安い二等のCクラスで十六万円もするという。十六万という大金」だったことに驚いている様子が描かれている。
フランス側で彼らを迎え入れたのがジョルジュ・ネラン( Georges Neyrand)神父で、個人的に奨学金を提供して彼らを支えその後も彼らとの親交が続いたという。
最後に、政府給費留学生の一人だった哲学者 森有正の面白いエピソードを紹介しておきたい。
彼は戦後第一回のフランス政府給費留学生制度に選ばれた代表として紹介されることが多いが、実は出港時間までに横浜港に到着することができず、急遽東海道線を使って神戸に向かいなんとか乗船することができた。
当時戦後初の特急として1949年(昭和24年)9月に復活した特急「へいわ」が東京―大阪間9時間だったので、十分神戸の出港時間には間に合うが実際どの電車に乗ったのか?調べていないが興味がある。
「La Marseillaise」号に乗り遅れてしまった森有正は、留学の話が舞い込んだ時、渡仏には消極的だったと言われている。政府給費留学生制度を受けるべきか迷った際に相談したのが戦前に給費留学生制度で渡仏経験のあった仏文学者の渡辺一夫だった。この時、師である渡辺一夫は森に「マルセイユに家が並んでいるのを見るだけで良いから行ってらっしゃい」と勧めたという。東大の助教授の職にあり、大学の政治状況が混迷する中<学生委員>でもあった彼にとって、フランスへの旅は大きな転機となる。森有正は一時帰国こそあったが、1978年にパリで客死するまで26年間をフランスで過ごすことになった。

※ではこの写真はいつ頃か?結論は出ていないが 他の写真が1953年ごろに集中していることから、この頃のものであろうと推測している。「La Marseillaise」号というヒントからまたひとつ歴史の1ページが見えてきた。