幕末から明治にかけて、様々な欧米スタンダードが押し寄せました。
目の前で起る現実に政治と立法が追いかけて行く時代でした。
特に通貨制度は諸外国と全く違うため「ハゲタカファンド」の餌食となりました。
通貨主権を取り戻す一つの政策として
1879年(明治12年)のこの日、外国の貨幣(洋銀)相場を日本が統制するために民間資本で作った「横浜洋銀取引所」開業の認可がおりました。
修好条約第5条 |
ペリー来航によって結ばれた「安政の五カ国条約」には我が国の通貨主権が明記されていませんでした。これは、致命的な国際条約です。国内に外国通貨が流通することを認めてしまったからです。文久3年以降、外国銀行が上陸し為替制度を独占します。幕府の財政が破綻寸前まで追いつめられます。「明治維新」は、徳川政権の財政破綻に対する少々乱暴な薩長土肥の政権交代と考えることもできます。
明治政権になり、政府は為替リスクを回避するために対策を打ちますが、完全に通貨主権を回復するのに明治30年までかかります。まず外国に対抗する銀行の必要性を認識し、横浜為替会社(横浜銀行の前身)を明治2年に設立します。そして明治12年には横浜正金銀行(東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身)の設立許可が出ます。
この年、民間側からも外国貨幣(洋銀)取引の制限を求める要求を政府に行い認可されます。これが冒頭の横浜洋銀取引所です。
この横浜洋銀取引所設立に結集した横浜のキーマンは、
渋沢栄一・渋沢喜作・大倉喜八郎・茂木惣兵衛・吉田幸兵衛・中村総兵衛・西村喜三郎・田中平八・原善三郎という当時のトップ財界人でした。
当時、洋銀相場ビジネスは上手くいくとぼろ儲け状態で、1,000円の資本で年2,000円の利益もざらだったといいます。儲かる一方で、一気に差損も生じるまさに「山師」の世界でしたので、市場の秩序を求めたのです。
(当時の洋銀のほとんど)がメキシコ銀貨でした |
横浜洋銀取引所を設立しますが、努力の割にほとんど成功しません。写真家で有名なフェリーチェ・ベアトは財テクのベアトでもありました。(2月16日参照)彼は1884年に横浜洋銀取引所を通して為替相場に大失敗し一文無しになります。よっぽどこたえたのか横浜(日本)を離れ(55歳の時)二度と日本の地を踏むことは無かったそうです。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」
通貨主権獲得のために思い切った政策を打ち出し成功したのが、松方正義です。明治14年の政変で大隈重信が下野し、それまで大隈と対立していた大蔵省官僚松方正義が大蔵大臣となります。いわゆる「松方デフレーション政策」で財政収支を大幅に改善します。
一方でこの改革は大きな犠牲も伴い国民の大きな反感も持たれました。
※余談 江戸からの伝統で硬貨は四角で予定されていましたが、時の大隈重信が硬貨は丸い方が良いと主張し丸くなったそうです。
過去に学ばないものは
過ちを繰り返す
ジョージ・サンタヤーナ(19世紀のスペインの哲学者)