No.187 7月5日(木) 目で見る運河
1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
歴史年表を紐解いていると「大岡川」の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となったという記事を発見。
というかこの時代普通に泳いでいましたので<禁止>が話題になったのでしょう。
今ではなかなか想像がつきませんが、理由は追跡しておりません。
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明治14年ごろ吉浜橋はまだできていません。(M14測量図) |
(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃の測量図です。
現在のマップで探ってみます。
首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。
1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。(「横浜真景一覧図絵」)
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語
(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、干拓と埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。
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開港前の横浜 |
大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり干拓事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。
干拓事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、干拓事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この干拓事業の地(川)鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され
現在もこのエリアの鎮守様となっています。(常清寺は開発のため現在久保山に移転)
この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
干拓にあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(堀割)で水を逃がし灌漑水路中川が作られました。
この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。

開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側(絵図左川)が元町、北側(絵図右側)が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
俗説にある風水による街並ではなく中華街は中村川の沼地<横浜新田>にできました。
形成時期のズレによるものです。
(中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)
No.186 7月4日(水) 一衣帯水の地 上海
横浜市は、
2010年6月28日(月)から7月4日(月)までの1週間を「横浜ウィーク」と題し、
上海市内において、横浜シティプロモーション、
横浜ブランドの市場開拓、観光客・中国企業の誘致を目的とする
イベントを集中的に開催しました。
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市長自ら「横浜はっぴ」を着て横浜PR |
上海「横浜ウィーク」横浜ブランド展レポート
(イントロ)
かつて魔都あるいは東洋のパリと称された世界最大級の商業都市上海。
訪れる時期によって全く印象の変わる変化する上海は
現在2,000万人の人口を呑み込み、いまだ膨張し続ける。
周辺人口を加えれば、中国はもとより、世界最大級の市場をもった街である。
そして、今年開催された「上海万博」をきっかけに
さらに新しい時代を切り開きつつあるこの街は、
横浜市と1973年から友好都市であると同時に、
日本から最も近い巨大市場でもあるにもかかわらず
遠い街であったのはなぜか?
中国3,000年の歴史といわれるが、上海の歴史は横浜の歴史と似て新しい。
共に19世紀末に欧米との貿易港として発展し、異文化の流入する国際都市として発展した。
一方で、上海は列強の占領政策による租界を中心にした街として、戦後、中国が独立するまで欧米列強のアジア拠点として日本の明治以降の方向に大きく影響を与えた。
1900年代の上海と横浜の関係は今想像する以上に深く 孫文、周恩来を含め多くの中国要人が横浜を訪れ、また経済的にも交流が深かった。
中華街の一角に今も孫文が身を寄せたことを記念する「中山記念堂」があり、孫文研究が華僑、日本人含め継続していることにも驚かされる。
今上海は急激な変化の中にいる。上海は数年前のイメージが全く通じない都市である。特に近年、日本がかつてそうであったように、上海万博のために 多くの大型PTが始まり、街の大改装が始まった。
6月28日(月)〜7月4日(日)まで一週間開催した、横浜ウィークに伴う「横浜ブランド展」の概要をレポートする。
(以上が 私の上海レポートの導入部分です)
【会場】上海梅龍鎮広場(一階広場)
住所:上海市南京西路1038号
地下鉄2号線「南京西路」駅下車3分
(以下省略 シャンシャン)
ということで、今日は若干番外編に近い私が歩いた上海のレポートにと考えましたが、
(その前に)
横浜と上海は友好都市です。(1973年(昭和48年)11月30日に友好都市提携を締結)
この友好を記念した公園が本牧市民公園の一角にあります。
「上海横浜友好園」まずはここの紹介から始めましょう。
1989年(平成元年)に横浜市と上海市の友好都市締結15周年を
記念してつくられた緑豊かな公園です。
横浜市が上海市に寄贈した「横浜上海友好館」のお返しとして上海市から提案、整備されたもので、中国江南様式による庭園です。
六角形の二重屋根が特徴的な湖心亭が湖面に写る四季の姿は借景の「三渓園」と相まって見事です。
三渓園には是非「上海横浜友好園」側南門から入場されることをお勧めします。
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
(もう一つの横浜・中国)
地蔵王廟をご存知ですか?
1892年(明治25年)4月に完成した寺院です。
横浜に暮らす中国人が、主要材を広東省広州から船で運搬し、軸部や外壁、屋根材は横浜で調達して建造しました。
中庭を中心に建物を前後に取り囲む南方特有(河南方式)の建造物で近代建築としては横浜最古のものです。
横浜市指定有形文化財(建造物)に指定されています。
所在地:中区大芝台7番地
中国では古来、異国の地で亡くなった場合、棺は生まれ故郷に返す習慣(回棺)がありました。横浜港には年に一回、棺を本国に送る船が帰港しましたが関東大震災以後、追いつかなくなり日本の習慣を受け入れるようになり火葬されるようになりました。(納骨のはじまり)
戦後、様々な事情でこの中華墓地の管理ができない状態が長く続きました。昭和60年代に入り、整備計画がまとまり地蔵王廟の復元が決まります。学者・識者の調査を終え、平成7年に修復された地蔵王廟が落成します。
横浜の華人、華僑の歴史は この「暦」でもどこかで紹介しておきたいテーマです。詳しくは 別の機会に譲ることにしましょう。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
テレビドラマのタイトルに合いそうなネーミングです。
「居留地警察」幕末明治初期の外国人居留地を取締る“治外法権”地帯の警察組織のことです。
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は
居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。
(居留地は治外法権)
居留地とは中国上海の租界のように、
列強各国が主に経済活動を行った治外法権エリアです。
山手にはフランス軍とイギリス軍が駐留する中、
欧米各国の外国人は日本政府と取り決めたエリア内に居住し様々な活動を行いました。
ここでは、領事裁判権をそれぞれの国が持っていましたので居留地内の管理運営はまったくバラバラな状態でした。
そこで、居留地の主力メンバーが集まり「市参事会」という疑似自治体を作ります。
居留地の環境整備、治安活動とその原資となる地代管理部門を作り運営しようとしますが、組織の不備と資金不足のため頓挫します。
居留地で最も勢力を持つイギリス公使パークスが名案を考えます。
管理運営を日本政府(神奈川県)に任せ、
居留地管理のトップは自分たちが選び、権限をそこに集中させれば良いのではないか?
英国十八番(お得意)の二重統治方式を提案し、
アメリカ、プロシア、オランダ、フランス(委任)の同意を得ます。
結果、“横浜外国人居留地取締役”制度を明文化し幕府も同意し締結します。
まず暫定で選ばれた居留地取締役が英国人「ドーメン」という人物でした。
この件については、
列強五カ国の外にいたスイス総領事代理シーベルがかなり抵抗します。
幕府に納得できないと直談判します。英国十八番の二重統治方式を警戒したのかもしれません。
ナポレオン以降のウィーン体制に抵抗してきた永世中立国スイスらしい主張でした。
結果、居留地各国代表は、居留地取締役を選挙で選ぶことを決めます。
(さすが民主主義の先輩)
居留地内住民から立候補者を募り、居留地外国人の選挙で選び各国の領事の多数決で決めることとなります。
まあこの時点では、被選挙権者が多いイギリス人が有利だと想定していたのかもしれません。
選挙は4人立候補しますが、事実上
アメリカ人のベンソンとイギリス人ボイルの一騎打ちとなります。
結果は下記の表の通り、ベンソンがかろうじてトップとなり選ばれます。
外交史的には、大英帝国の没落と、
居留地での英国人の優位性が崩れてきた結果がここに現れています。
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選挙もすばらしいですが、記録がしっかり残っているのもすごいですね。 |
時は明治元年(まさに明治維新のまっただ中)
各国領事も全会一致で承認し幕府に(ベンソンを)居留地取締役として推薦し、新政府も同意します。
月給は洋銀で350ドルだったといいますからかなりの高給であったことは間違いありません。
ベンソンは、1877年(明治10年)6月末日までの10年間、実に誠実に居留地の改善に尽力します。
居留地取締役は警察組織でもありましたが、道路や衛生状態の改善も行いました。
居留民から公園が欲しいという要求に対し「山手公園」の整備にも彼の手腕が発揮されました。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
「消えた山高帽子」この小説はベンソンが登場するかなり歴史にも踏み込んだ力作です。ワーグマン探偵の謎解き風の仕上げは一瞬小説であることを忘れそうです。
ただ、領事裁判権を含め治外法権は改善されない状態で英仏軍の軍事的占領の下での警察活動だったためその軋轢は多くの事件を引き起こします。
ハートレー事件はその象徴的なできごとでした。
→別の機会に必ず書きます。
(ヘスペリア号事件というのもあります)
※イギリス人商人ジョン・ハートレー(John Hartley)が日本でアヘン密輸事件を起こしますが領事裁判法廷は無罪の判決を言い渡した治外法権を日本が実感した事件です。
とはいえ、明治に入った数年は政府も混乱状態で「居留地管理」はほぼベンソン以下外国人チームに任せっきりの状態だったようです。
(個人的には米国人ベンソンで良かったな)
その後、落ち着きを取り戻した新政府がようやく本腰を挙げて「警察組織」づくりや「法体系」整備にとりかかります。
それでも 不平等条約改定までまだ20年以上かかる訳ですから日本外交の綱渡りが続きます。
横浜にも警察組織が整備され、
様々な法制度も整ってくることによって、
居留地取締役の役割も形骸化してきます。
そこで、1877年(明治10年)6月末日をもってESベンソンの役を解くことになります。
横浜最初の警察署は「加賀町警察」で、
明治26年設置されましたが前身は「居留地警察」ですので、日本で一番最初の外事警察だといえるでしょう。
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ちょうど加賀町警察ができる頃の元居留地周辺です。「警察署」の文字読めます? |
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スイス国旗の右上、現在の加賀町警察とほぼ同じ位置にあります。 |
(余談)
海外のDBで資料を探していたら
New York Herald 1874 (明治7年)3月28日号に
「Japanese municipal reform」と題して
Mr.Edward S.Bensonの記事が掲載されていました。
母国アメリカのニューヨーク市長に
港湾関係の法律などの資料が欲しいとメールしたことが紹介されています。
No.184 7月2日(月) ハマに浜ができた日
金沢区のほぼ南端に、
1キロメートルに及ぶ白砂と青松が広がっています。
春先には潮干狩り、夏には海水浴でにぎわう「海の公園海水浴場」が、
1988年(昭和63年)7月2日(土)の今日、オープンしました。
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八景島オープン時の空撮写真 |
(海の公園)
海の公園は人工浜です。
「金沢地先埋め立て事業」で失う海岸線を人工的に確保した空間で、
今考えればかなり強引な環境計画です。
(能見台エリアの開発土砂の活用も兼ねていましたが)
この海の公園に関しては、すでに紹介していますのでご参照ください。
No.136 5月15日(火) フルライン金沢区
(明治時代の海水浴)
皮肉にも
海の公園だけが現在横浜市の唯一の海水浴が可能な「浜」となっています。
長い浜をかつて持っていたこの街にとって、貴重な砂浜になってしまいました。
といっても海水浴の歴史は120年位です。
少し歴史を探ってみました。
海水浴は幕末以降居留地の外国人の習慣が一般市民に広まったものといわれています。様々な外国人の記録が残っていますが、(治療用)海水浴場開設に大きな影響を与えたのはドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツです。
古来、日本にも「潮湯治」という塩水治療の海水浴が行われていましたので、その線引きは難しいところがあります。どちらにしろ、昔の海水浴は泳ぐというより温泉と同じ“健康”と夏の“避暑”を兼ねたまさに「浴」(海水に浸る)でした。
※潮湯治は病気治療のために行われたもので、江戸時代のおわり頃の『尾張名所図会』や『郷中知多栗毛』にも記録されています。
(治療から娯楽へ)
1879年(明治12年)7月6日の『ベルツの日記』には「海水浴場適地を探索するため横浜から馬車で江の島に来訪」という記述が残っています。
明治初期、横浜市金沢区の富岡八幡宮の前の浜は横浜の山手・本牧に居留した外国人が好んで野外散策を楽しんだという記録が残っています。
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海岸線に海水浴場の地図記号が記されています |
海水浴の歴史に詳しい上田卓爾・星稜女子短大教授(観光史)によると、
1871年(明治4年)に横浜市金沢区で、18歳の女性が医師を伴い、海水浴をしたことが外国人の著書に紹介されているそうです。
また、ローマ字で著名な眼科医ヘボン博士 (Dr. James Curtis Hepburn) は1877年(明治10年)金沢・富岡の慶珊寺に逗留しリュウマチ治療のため海水浴をしました。
この時に“金沢富岡海岸の水質がよい”と海水浴を奨励したそうです。
1881年(明治14年)ころにヘボンの推奨により「海水浴場神奈川縣廰」という標識が建てられたといいますがどうやら外国人専用だったようです。
http://homepage3.nifty.com/kurobe56/ks/ks0115.htm
(はじめて競争)
全国各地に日本最古の海水浴場を看板にしているところが点在します。
ポイントは日本人が何時頃から、海水浴を始めたかが「日本最初の海水浴」宣言の論点になっているようです。
特に大磯と鎌倉がその最大ライバルで歴史資料を元に議論が起っています。
横浜の海水浴の歴史?
というと、外国人の記録では1865年にフランス波止場沖に「水浴ボート」を出したという記録があります。
海岸では金沢の富岡付近が明治初期の人気海水浴場であったことは間違いないようです。また、本牧も居留地から近いこともあり、
「風光明媚な本牧十二天は。居留民に人気のある場所であり、外国人遊歩新道の至道が設けられていた。ここで海水浴が行われたらしいことが『ファー・イースト』1870年9月1日号から窺われる」(横浜もののはじめ考)とあります。
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明治十七年の記事 |
(立地競争)
明治期の金沢富岡海岸の海水浴は、短期間で衰退します。
理由は鉄道の開通といわれています。
何時の世も、アクセスの良い方へ客は流れるようで、東海道線の開通で、海水浴は「湘南」「大磯」に移っていきます。
その後、湘南電気鉄道(京浜急行)の開通で磯子から三浦までの海岸線の砂浜は埋立てが始まるまでのかすかな時間、海水浴で賑わいます。
大正時代から、横浜は海水浴場が無くなります。
この人工海岸オープンするまで。
No.183 7月1日(日) 7月のハマ?
2012年は一年366日、このブログも7月1日で折り返し半分まで来ました。
早いものです。
ネタ探しはかなり大変ですが、できるだけこれまでにない「繋がり」を紹介していこうと思います。
さて、今日7月1日ですが、1928年(昭和3年)まで「開港記念日」として祝賀プログラムが行われてきました。ところがこの年以降、6月2日となり現在に至っています。
なぜ、7月1日が6月2日に変更になったかに関しては、
「3月23日 雨が降りやすいので記念日変更」
に詳しく紹介しています。
この時の有吉 忠一市長に関しては
(そもそも)なぜ開港が7月1日になったのか?
当初の各国(五カ国)との条約では
神奈川湊の開港日の約束はバラバラでした。
アメリカとは7月4日、フランスとは7月14日とか
1859年7月1日(安政六年6月2日)は「英吉利」「露西亜」と約束した日程でした。
最終的に 各国がこの英吉利・露西亜日程に従ったということのようです。
幕末開港当日は祝賀どころの話しでは無かったようで
静かな開港日を迎えます。
翌年から数年“開港祝賀会”が開催されたようですが、市をあげて記念式典を行い、開港記念日となったのは1909年(明治42年)7月1日(木)の今日開催された「開港50周年式典」がキッカケでした。
この開港50周年を祝して
横浜市は、建設中の新港埠頭で式典を行うと同時に
■市の歌の制定(式典で披露されました)
横浜市歌
■市のマーク(き章)の発表(制定)を行いました。
また1913年(大正 2年)に横浜港開港50周年を記念して記念館の建設が計画され、設計案のコンペが実施され1917年(大正 6年)の7月1日に「開港記念横浜会館」の名称で開館しました。
名称が変更され現在「横浜市開港記念会館」と呼ばれています。
この記念館物語は 下記ブログで紹介しています。
「開港50周年式典」に始まった二つの事業について紹介します。
まず
■横浜市歌について
横浜で最も多くの人に歌われている楽曲は「横浜市歌」です。
作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は、当時東京音楽学校(現、東京藝術大学)助教授だった南能衛(よしえ)氏です。
横浜市歌がどのような過程で制作されたか、資料が失われてしまった関係でよくわかりません。
素人謎解きしたのが
横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編
【合唱版】横浜市歌をご存じない方は実際にお聴きください。
http://www.youtube.com/watch?v=8gaObvebpXU
●ブルースバージョンもあります。
横浜市歌ブルースバージョン 中村裕介
http://www.youtube.com/watch?v=R_Fu7Wf06wo
●編曲バーション アラメヤ音頭です。盆踊りやイベントで振る舞われます。
http://www.youtube.com/watch?v=UrDa2K1Sh64&list=UUFAb4x6bVD4pMcGCVdDJ1fQ&index=10&feature=plcp
【森林太郎の歌詞】
わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/
次に冒頭画像の
■市のマーク(き章)の制定についてです。
調べた訳ではありませんが、自治体のマーク制定としてはかなり初期にあたるのではないでしょうか。
【濱菱】
カタカナの「ハマ」の文字をデザイン化したものです。市職員のバッチは勿論、様々なところにこのマークが使われています。
(※あらぬ噂 某広域●●団のマークに似ているため 某所で問題になったとか…)
この濱菱マークの商品も販売されています。
■品名:魚肉煉製品(ゆでかまぼこ)「浜ナルト」
原材料名:魚肉、他
内容量:150g
販売者:株式会社石橋
〒221-0045 神奈川県横浜市神奈川区神奈川1-1-36
横浜中央卸売市場本場 Cー27 株式会社 石橋
販売期間:12月26日〜29日まで
■会社名: 横浜醤油株式会社
創業は昭和12年(1937年)9月
所在地:〒221-0005横浜市神奈川区松見町3-1-6
http://www.yokohama-syouyu.com/
最近、シンボルマークが変わりました。1989年の横浜博YES89で「バラのマーク」が制定され20年使われました。
二代目のシンボルマークはOPEN YOKOHAMAです。
ハマウイングマークとも言われています(単なる噂です)
No.182 6月30日(土)珍しい幕末台場が眠る街
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明治期の台場図、左上斜めに鉄道が開通しています |
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現在と重ねてみました(ちょっとマップが古い!) |
(概要)
調査は過去に何回か実施されていましたが、
今回(2008年6月30日)の調査は、台場と陸地を繋ぐ
「西取渡り道(にしとりわたりみち)発掘調査」が行われました。
場所は、古地図では一目瞭然ですね。
でもこれが現在どこか?
というと横浜通でも実際足を運んでみないと中々分かりづらくなっています。
京急仲木戸から徒歩十分くらいです。(バスもあります。コットンハーバー行き)
古地図上、横浜港に突き出ているのが横浜台場です。
東京のお台場が有名ですが、幕末期全国に数多くの「台場」が作られました。
四方海に囲まれている日本にとって海岸線(港)の防衛上不可欠な要塞でしたから全国急ピッチでお台場造りが進められました。
(約1,000箇所ともいわれています)
この神奈川台場は、幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられた松山藩(現在の愛媛県松山市)が勝海舟設計のもとに1859年(安政6年5月)に着工し、1860年(万延元年6月)に完成したものです。
※実質は勝海舟に丸投げ!だったという記録もあるようです。
扇型に近い形状で3つの稜堡(りょうほ.凸角部)がつくられ、函館の五稜郭と同様にヨーロッパの大砲を使用する対近代戦用の稜堡式(りょうほしき)築城形式が採用されました。
この神奈川台場、他のお台場とは少し役割が異なり
“多目的”だった点が注目されます。
(数ある台場でも貴重な存在)
神奈川台場、軍事施設であると同時に、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていました。
また、諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用された記録が残っています。
国際港湾都市横浜に相応しい施設だったといえるでしょう。
総面積は約2万6千平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川区幸ヶ谷(こうがや)、幸ヶ谷公園付近)の土砂が使われました。
(忘れ去られた遺構)
この神奈川台場は、1899年(明治32年)2月に廃止され、大正時代あたりから周囲の埋め立て事業によってまさに“埋もれて”しまいます。
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石積みがしっかりしています。 |
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発掘された遺構 |
(蘇るのか開港場の遺構)
このお台場、過去に何度か保全計画が持ち上がったようですが、全て計画だけで今回の発掘を待つしかなかったようです。
ただ、埋め立てたままであるということ、中心部はJR貨物の東高島駅で掘削等を殆ど行っていないことから、まだまだ保全には期待が寄せられています。
一部ですが、開港150周年を記念して、神奈川台場公園の敷地内にその石積みが復元展示されています。
さらに、
■参考リンクが多くありますので一部を
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/make/kanagawadaiba.html
http://boso-cycle.blogspot.jp/2011/02/blog-post_13.html
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110010016/
http://castle1.exblog.jp/15444965/
http://castle1.exblog.jp/15382223/
http://castle1.exblog.jp/15401750/
http://www.katsu-iwai.com/katsusable/index.html
■マンション内資料室で公開
日本人はどうも「形」が見えないと関心が高まらないようですが、2012年(平成24年)5月に、遺構を個人的に公開した方々がいます。
これで、さらに神奈川台場へのリアリティが増して来ると期待されています。
詳しくは
http://www.hamakei.com/headline/6987/
「営業時間は10時〜23時。入場料は大人100円、子ども・学生無料。資料室はレンタルホール(有料)としての貸し出しも行っている。問い合わせは栄光(TEL 045-441-5465)まで。」
※余談
幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられたのが松山藩
開港場付近の警備を命じられたのが越前松平藩
越前松平藩の警備本部(陣屋)が日ノ出町駅近くに作られました。
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
1959年(昭和34年)6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
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山下公園周辺図 |
終戦の年、1945年(昭和20年)8月30日(木)あのコーンパイプを片手に厚木基地に降り立ったマッカーサーがその足で横浜の「ホテルニューグランド」に向かったところから戦後が始まります。
山下公園は早速接収候補になります。占領軍の住宅がかなり不足していたからです。
横浜は、戦後最初に占領された大都市でした。
将校・軍属・下士官などの家族住宅を建てる名目で「山下公園」が接収されたのが9月2日(日)でした。
その他
横浜港近辺は殆どが接収されることになり、日本人は殆ど海辺(港)に出られない状態が始まります。
この頃、山下公園には「氷川丸」も「マリンタワー」もありません。
山下公園一帯には、35棟のオーシャンビュー住宅が建設されました。
占領時のマップから想像すると海に面した一等地にゆとりの住宅です。
一区画が広いですね。
山下公園の接収解除には時間がかかりました。
多くの接収地が変換される中、返還に6年かかります。
おそらく、ココに住んだ米軍幹部は、ロケーションが気に入ったからでしょう。
※余談ですが、米軍は占領地横浜に“好き勝手に”通り名を付けています。
水町通りは? アラバマ通り
ケンタッキー通りもあります。
米軍施設返還開始期間
(1954年(昭和29年)6月2日〜1960年(昭和35年)6月15日)
山下公園は、完全返還前に一部返還式が1959年の6月29日(月)に行われました。
返却理由の真相は判りませんが、この時代は日米安保闘争のまっただ中であったことは間違いありません。
■時の両国トップ
アメリカの大統領はドワイト・アイゼンハワー
日本の首相は岸信介
横浜市長は17代半井清
(1941年(昭和16年)2月10日〜1946年(昭和21年)11月30日
13代市長を務めました。平沼市長死去に伴い出馬当選)
■接収された施設の一部をリスト化しました。
サウス・ピア海岸通
(大桟橋)1945年(昭和20年)9月2日〜1952年(昭和27年)2月15日
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新大桟橋 |
ルー・ゲーリックスタジアム横浜公園
(横浜公園球場)1945年(昭和20年)9月25日〜1952年(昭和27年)4月8日
PX写真工場吉田町
(都南ビル)1945年(昭和20年)10月2日〜1955年(昭和30年)7月22日オクタゴン劇場長者町
(横浜松竹映画劇場)1945年(昭和20年)9月11日〜1955年(昭和30年)11月21日
高射砲陣地岡村町
(岡村公園)1951年(昭和26年)1月27日〜1966年(昭和41年)3月29日
グランドホテル山下町
(ホテルニューグランド)1945年(昭和20年)8月30日接収
1951年(昭和26年)8月13日〜1952年(昭和27年)7月24日段階解除
横浜スペシャルサービス・クラブ
(不二家)1945年(昭和20年)9月24日接収
1952年(昭和27年)5月15日〜1958年(昭和34年)5月15日解除
2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店
ミンドロ・コート山下町
(英一番)1945年(昭和20年)10月14日接収
1952年(昭和27年)8月1日〜1954年(昭和29年)5月17日解除
■現在も接収されている主なところ
深谷通信所深谷町(旧海軍通信隊)1945年(昭和20年)9月2日〜
上瀬谷通信施設瀬谷町(旧海軍倉庫)1951年(昭和26年)3月15日〜
池子弾薬庫六浦町(旧海軍第二工廠造兵部谷戸田充填所)1945年(昭和20年)9月1日〜※逗子市だけではなく横浜市にも接収地があります。
他に返還が決まっていて まだ米軍の管理下にある施設等も幾つかあります。
■山下公園関連ブログ
2月12日 “浮浪者狩り”
No.180 6月28日横浜能楽堂、その点と線
1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。
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能楽堂外観 |
横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。
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散策ルート紹介 |
横浜能楽堂の能舞台は、移築・復元されたもので
1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられたものです。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。
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珍しい白梅、根本の竹 |
その後、1919年(大正8年)東京文京区染井の華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時 都内には多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災でも4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところから
ここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。
(実は父が東京に大学進学のため上京した際、本郷中学に3年時編入しています。卒業証書には松平頼寿の名が在り
能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、
1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として復元再生に挑むことになります。
新能楽堂建設には当初膨らむ予算や技術的課題が山積し完成にはかなり時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月にようやく竣工の運びとなりました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。
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落雁がおすすめです |
(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)
そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/
(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。
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画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます |
(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)
もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp
(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。
No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
今日、6月27日は何をテーマにするか?
迷いました。
選んだキーワードは「発明と博覧会」です。
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内国勧業博覧会の図 |
6月27日といえば、
第一候補は、文久3年5月12日(1863年6月27日)長州五傑「井上聞多(馨)」「遠藤謹助」「山尾庸三」「伊藤俊輔(博文)」「野村弥吉(井上勝)」の5名が英国留学のため横浜を密出国した日です。このテーマは旧暦5月12日ネタにしました。
No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama
超マイナーでは、神奈川県警神奈川署が明治17年に「署」に昇格した日です。
これはこれで神奈川の初期警察の話しで面白い。
(だから?ネタだし…)
もう一つが、
1882年(明治15年)神戸・横浜などの7港に悪疫防止のため船舶検疫制度実施された日です。横浜の防疫体制確立はかなり切羽詰まったテーマです。
(これは森鴎外、野口英世 含めネタを練らねば…)
ということで、今日はこのブログらしく
もっと横道系にすることにしました。
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知らない方も多い?何でしょう? |
1877年(明治10年)6月27日(水)横浜の発明王といわれた山田与七が、「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」を発明?!した日なんだそうです。
また、
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」?というデータを歴史年表の片隅に発見しましたので、ここから横浜を掘ってみます。
山田与七という名は、このブログでも既に登場した人物です。
「No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王」の山田与七です。
与七は、名古屋に生まれ明治維新早々
横浜で事業を起こそうと考えた多くの「ハマの起業家」の一人です。
神奈川芝生村(かながわしぼうむら)に居を構えました。
※芝生村は音が良くないということで、後に廃止された町名ですが現在の西区浅間町あたりで交通の要所です。ここに追分(大山街道と東海道)があります。
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芝生村あたり(現在の浅間町) |
山田与七は、横浜で送電用の電線を製造する会社を起こし「電線製造」の先駆的役割を果たした人物です。
銅線を布で巻き絶縁した電線(袋打ちコード)を作り成功します。今でも使われていますが、古い民家などには布の電線が陶器ガイシを伝い使われていました。
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綿コードと陶器碍子が現役の山形「山居倉庫」 |
この電線、材質は銅線が一番で電気の普及と共に需要が急増した工業製品です。
山田与七は1884年(明治17年)頃、高島町に山田電線製造所を作り成功します。
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山田電線 創業の高島9丁目あたり(現在の神奈川区金港町) |
1896年(明治29年)には横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社となり、裏高島の工場で次世代電線のゴム被覆線の製造に着手します。
当然ですが、電線には「銅線」が、絶縁には「ゴム」が必要になります。紆余曲折ありこの「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)に、「ゴム」製造部門が横浜ゴムとなり現在に至っています。
その工場がある場所が「平沼橋」
TVKプラザ横浜近辺です。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/
横浜イングリッシュガーデン
http://www.y-eg.jp/
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まだ古河の施設が残っていた頃 |
ここまでの話しは「No.127 5月6日」の延長線ですのでおさらいも兼ねました。
■1877年(明治10年)6月27日
「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」
このあたりを掘ります。
クロモジから香水・香油にするのは古来からあった技術で、
いまさら横浜の発明王が“発明する”話しではないはずです。
では?
量産のための製造機器の発明だろうと推測できます。
調べてみました。
※クロモジ 高級な爪楊枝として使われている落葉低木で明治期には香料として欧州方面へ輸出されていた人気商品だったそうです。
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イヌガヤ |
もう一つのデータ、「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」(原文ママ)の犬榧子は(やまがや)とは読まない?
正しくはイヌガヤ科イヌガヤ属の常緑小高木の針葉樹で「イヌガヤ」があるがこれでは?
さらに、ペンキ用のボイロ油とは何だ?
一瞬ボロイと読んでしまいました。
これらの情報から、
私流に修正すれば、犬榧の実を絞ってペンキ用のボイル油を大量に精製することに成功したということのようです。
本州エリアには広く分布する犬榧の種子には良質の油が含まれているので大昔から油を絞り寺社の灯明に利用したと文献に書かれています。
クロモジも同じ蒸留手法です。
では山田氏は何を発明したのか?
ヒントがもう一つありました。
彼は日本の最初の産業見本市「内国勧業博覧会」に第一回から第四回まで出品しているというところから、何か装置、工業製品を発明したようです。
それは、蒸留装置と推測できます。
クロモジの油も、イヌガヤの油も水分を多く含んだ油ですので
蒸留による(量産用)分離装置を発明したのではないでしょうか。
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イメージ図です。実際のものとはたぶん全く違うと思います。 |
第1回内国勧業博覧会
1877年(明治10年)8月21日〜11月30日
※会場は3回まで上野公園
第2回内国勧業博覧会
1881年(明治14年)3月1日〜6月30日
第3回内国勧業博覧会
1890年(明治23年)4月1日〜7月31日
第4回内国勧業博覧会
1895年(明治28年)4月1日〜7月31日
※会場を京都市岡崎公園に移します
(関連ブログ)
No.2137月31日(火)金日本、銀日本
1877年(明治10年)6月27日という月日ともほぼ一致します。この博覧会に関する記述に
「他に特筆すべき出展品はあまりないが、浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達の出展が目を引く。内国勧業博覧会は商品宣伝の場としての地位を得て、民間にも活用されつつあったようだ。」
とありますから山田与七は発明品のPRに博覧会をおおいに活用したことがわかります。
(推測のまとめ)
山田与七はクロモジの香料を抽出する装置は欧州市場拡大で成功。
犬榧の実でペンキの溶剤を精製する装置でも国内市場で成功し
電線事業に転換したのではないでしょうか。
電線製造には広い工場が必要になってきますから、
その資金源が「オイル」だったのかもしれません。
最初の電線会社が高島町の線路脇(土地が安かった?)で、その後規模を拡大しながら平沼に移ります。
山田与七
あまり歴史の表舞台には登場しませんが、日常の喜びを発明し、社会の夢を形にしていった“横浜物語を象徴する人物”の一人であることは間違いありません。