2月 29

番外編 目利き見立て見切り

「今日の暦」は凡そ一週間単位で資料調べをしながらテーマを決めていきます。特に既知のテーマ以外はなるべく決まった時間内に調べると決めたルールです。
ある一定時間でどこまで調べるか、どこまでまとめるかをトレーニングするために立てた一年の目標がこの「暦で綴る今日の横浜」です。
テーマ探しにはかなり濃淡があり手元資料ではほとんどネタにできない難しい日もあれば、幾つもの面白ネタが集中する日もあります。この「暦」を始めて分かったことは書きたい!面白い!というネタの方が難しいことが多いので困ります。書きたいという欲、もっと知りたいという欲が絡み合い、もっと良く書けるのではという不安が心を過ります。ほんの少し物書きの深さを体験中です。
スペックシンドローム。調べるテーマをどんどん穿ってしまうことで全体が見えなくなってしまうことが往々にしてあります。わかりやすく、簡潔に書くってこと難しいことです。だからトレーニングなんですが。
いまのところ文字量まで決めていません。ちょっと自信が無いですから。書きこなして行くうちに光も見えてくることでしょう。

昔、「ファブレス企業」の勇、株式会社ハウス オブ ローゼの川原暢氏をインタビューした時に、
ビジネスは目利き見立て見切りという話しを伺いました。「物書きも同じでしょう!」と言われましたが 確かに
探し出す「目利き」ネタ探しの嗅覚が必要です。
ネタからテーマをイメージする「見立て」
そして最も大切なのが「見切り」だそうで、欲張らない構成が大切ですね。
60話目をもって 目利き見立て見切りの大切さを実感しています。 

2月 29

No.60 2月29日 消え行く街の個性

本日閏年60話、2ヶ月終了しました。
外は雪です。閏年でなければ3月の大雪です。

商店街が衰退しつつあります。時代の流れかも知れませんが、一階建ての百貨店が風前の灯です。1980年(昭和55年)の今日、神奈川区にある六角橋商店街から出火、24棟26店舗が焼失しました。

グーグル航空写真 商店街上空

戦後の焼け跡から復活し、昭和の香りを色濃くもっている商店街がヨコハマからも消えつつあります。そのきっかけになっているのが残念なことに火災です。それも放火(不審火)が多いのが現状です。
六角橋商店街は1980年(昭和55年)に大きく商店を失いましたが不完全ながら復活しました。

ところが、 2011年8月に六角橋交差点寄りの店舗が火元とみられる火災が発生し17棟が焼失してしまいました。これによる商店街の復興は絶望といわれています。
磯子区浜マーケットも戦後のアーケードを色濃く残した商店街ですが、ここも火事で大きなダメージを受けました。

神奈川大学から六角橋方向?だと思う
六角橋は神大の街でもあります
時々 フラッグも

古くさいもの何故残すのかという声も大きいそうです。不気味な圧力もかかるそうです。店主の高齢化も進んでいます。消防法上好ましくない建築物であることは間違いありません。単なるノスタルジーではありません。
残して欲しい街の個性です。

銭湯も頑張っています。若者が空き店舗で頑張っています。でも厳しいですね。
※2005年の2月と3月に放火事件がありました。

昨年の焼失場所
六角橋商店街
http://rokukakunohashi.blog82.fc2.com/
(2012年5月10日 更新)
2月 28

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業

2月18日の「過去に学ばないものは過ちを繰り返す」でも紹介しましたが、明治政府は外国に対し通貨主権を回復するために様々な手だてを試みます。
1880年(明治13年)
1月に安田銀行(富士銀→みずほ銀)、
2月のこの日横浜正金銀行(東京銀)、
4月には三菱為替店(三菱銀)が相次いで開業します。

旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより

横浜正金銀行は、横浜区本町4町目58番地を本店として営業を開始します。戦前HSBC(香港上海銀行)とともにアジア最大級の国際金融を担う日本経済を支えた外為銀行でした。戦後解体され外為部門が東京銀行になりその後三菱銀行と合併します。

明治政府は、維新後国家体制の確立のために様々な出費を強いられ財政的に逼迫します。さらに明治10年に起った内乱、西南戦争によって軍費調達のために紙幣を乱発し、これによってインフレーションが起ります。また輸入超過により銀貨が大量に流出します。
時の大蔵卿(大蔵大臣)大隈重信は、銀貨流出抑止と洋銀管理が必要と考えました。同じく慶応義塾の福沢諭吉は紙幣の乱発が貨幣と紙幣の格差を生み、財政危機に陥っているとして金融機関の設立を大隈に提案します。
同じ危機感を認識した二人は為替銀行設立に動きます。
慶応義塾社中中心に民間資金200円、政府が100円を出資し開業したのが横浜正金銀行です。
早矢仕 有的の片腕として丸善の発展に努め郷里名古屋に帰り事業を展開していた中村道太を福沢が呼び戻し初代頭取に推挙しました。副頭取には小泉信吉(ロンドン支店開設等を担い、政府主税官を経て塾長)が就任し、主な業務を対外貿易金融に特化した外為銀行が誕生しました。
その後、政変が起こり(明治14年の政変)中村道太には劇的なドラマが待ち受けています。このエピソードは別の機会にご紹介しましょう。

2月 27

番外編 幕末明治の年号って苦労します。

明治5年11月9日(1872年12月9日)
突然、本当に唐突に
日本国内の暦が変わるという達しが出ます。
本年(明治5年)12月3日を明治6年1月1日とします。
この日以降日本はグレゴリオ暦、西暦を使いますってことに。
有余は一ヶ月しかありません。暦は生活に密接に関わっていましたから、混乱したでしょうね。
なんたって一ヶ月早く正月が来てしまう訳ですから。
何故急に布告したか?
政府の財政難を乗り越える苦肉の策で
一ヶ月分公務員の給与をカットする算段だったそうで、乱暴と云えば乱暴な話しです。
一方この暦改変をビジネスチャンスにしたのが
福沢諭吉で、慶應義塾出版局から『改暦弁』を出し10万部という当時でも大ベストセラーになったそうです。

幕末から明治にかけて暦は天保暦(旧暦)が使われていました。西暦と合致させるには結構面倒で、時々資料を読んでいると内容が西暦天保暦混在、混乱していることがありややっこしくなります。
西暦年と和暦年は一致しません。
例えば安政4年は1857年と58年にまたがっていますから単純に一致しません。
また時に閏月というのがあります。旧暦にもルールがあるんですが、閏月設定法が複雑なんです。
というわけで 手っ取り早いのが一覧表ってわけで、私は
1850年から1973年まで対応表を作り都度照らし合わせています。

 
2月 27

No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき

市長は政治家です。
役所で唯一選挙で選ばれた政治家です。
数人を除き、その他は全て公務員です。
市長には任期があり、選挙が待っています。だからこそ、首長(市長)の辞め際には様々なドラマが待ち受けています。
1978年(昭和53年)のこの日、第21代横浜市長飛鳥田一雄は市議会議長に辞任の意思を告げました。

飛鳥田一雄は、歴代市長の中で唯一(昭和38年から昭和53年まで)4期15年務めました。
プロフィールの詳細はWikiを参照してください。

飛鳥田は磯子の旧家で医師の家に生まれました。弁護士となり、横浜市市会議員、議会議員、衆議院議員を経て市長に当選します。
基本政策 横浜六大事業をかかげました。
1みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業
2これと連動した金沢地区埋め立て事業
3港北ニュータウン事業
4幹線道路事業
5地下鉄事業
6ベイブリッジ事業
このビジョンは彼が横浜市を去った後も横浜市の基本計画として生き続けました。この政策実行には、飛鳥田がスカウトしてきた都市コンサルタントで後に技監となった田村明(退官後法政大学教授)の果たした役割が大きくありました。
飛鳥田一雄の行政評価は個々の判断に任せ、ここでは違った横顔を紹介しましょう。
市長の仕事の傍ら、彼は一人のフランス人実業家について資料を集め研究していました。その人物の名はアルフレッド・ジェラール、1837年にフランスのラーンスに生まれ1863年(文久3年)頃来日、横浜に来ました。横浜では多くの事業を興します。山手の湧き水に着目した船舶用の給水事業は世界に赤道を越えても腐らない「ヨコハマウォーター」の名が轟きました。さらに彼は煉瓦製造工場を建て「ジェラール瓦」を作ります。この瓦を使った建物は現在も幾つか残っています。多才な事業家で母国に戻った後も活躍します。

ジェラール屋敷

この人物に最初に関心を持ち研究を始めた人物こそ飛鳥田一雄市長でした。
当時誰も研究対象にした専門家はいませんでした。今でこそお宝ものですが、ジェラールの工場跡地はしばらく普通の空き地で、瓦の破片が至る所に転がっていました。昭和40年代、私が高校生の頃、屋敷跡から何枚か瓦を拾ってきた記憶がありますが、自宅を探しても見当たりません。(残念です。文字がはっきり読めたのに)地元の人たちもその重要性に気がついていませんでした。
詳しくは飛鳥田一雄著「素人談義三人ジェラール (1974年有隣堂刊)」に語られています。


最後にもう一つ歴史の皮肉ともいえるエピソードを。
飛鳥田一雄は市長を任期終了直前に辞任し、社会党委員長になります。
1980年5月16日に飛鳥田率いる社会党が浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など一連の自民党のスキャンダルを理由提出した大平内閣不信任案が与党自民党一部による造反で1953年以来27年ぶりに内閣不信任決議可決します。
初の衆参同日選挙が行われますが、選挙中大平正芳の急死により自民党が勝利します。
いわば憤死した大平正芳は、大蔵省入省後税務畑を歩み昭和12年結婚直後、横浜税務署長となりに紅葉坂の官舎に住み、その後(飛鳥田の地元)磯子区字浜1666に転居します。その時、飛鳥田一雄22歳でした。

No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます

2月 26

No.57 2月26日 ある街のある店の歴史

1936年(昭和11年)のこの日、東京横浜電鉄東横線綱島温泉駅前に一軒の菓子店が開業しました。
店の名は御菓子司「や満田屋製菓」、現在港北区で一番歴史ある老舗菓子店です。
この年昭和11年は雪の多い年でした。特に2月に入り4日、23日と続いて大雪が東京近郊を襲い積雪は30cmを越えました。
そして開店の26日は早朝からしんしんと雪が舞い忘れられない一日となりました。

期間限定桃まん

綱島の御菓子司「や満田屋製菓」が開店した日、時代を揺るがす226事件が起りましたが、夜までほとんどの市民はこの事件を知りませんでした。当時唯一の電波メディアだったラジオ放送も、全ての新聞(夕刊版)も一切この事件を報道しませんでした。
第1報が陸軍省発表として初めて伝えられたのが26日の20:35の臨時ニュースでした。
「本日午前5時ごろ一部青年将校等は左記個所を襲撃せり。(後略)」
積雪35センチ以上の大雪の中、無事開店を終えた「や満田屋製菓」のある綱島界隈は、十年前の1926年2月に開通した東京横浜電鉄神奈川線の綱島温泉駅開設で一気に賑わいを見せはじめていました。急行も運転を開始し、東京の奥座敷として多くの観光客も訪れていました。

綱島の歴史は鶴見川の氾濫の歴史でもあります。現在では静かな川ですが、昭和時代まで暴れ川でした。水害も多く、耕作地としても不向きでしたが、水が氾濫しても作付けに影響の少ない「桃栽培」を始めることで、綱島は桃の名産地に生まれ変わります。当時、桃は「西の岡山。東の綱島」といわれました。現在でも少し桃畑が残されています。(その桃で地麦酒が造られています)
桃が次第に斜陽になってくるのと前後して温泉が発見されます。綱島は一気に桃畑から温泉場に変身します。東京横浜電鉄(後の東急)の延長とも重なります。
1944年に綱島温泉駅は現在と同じ綱島駅に改称されますが、綱島温泉は1970年代まで東京近郊の温泉場として賑わいますが、伊豆箱根に客を奪われ温泉場は首都圏のベッドタウンに変化して行きます。現在では昔の面影を確認できる場所は限られてきましたが、古民家、桃畑、ラジウム温泉もかろうじて残されています。

横浜ビール製綱島桃ビール

老舗「や満田屋製菓」もまた綱島の歴史を見守る激変の街綱島の生証人です。はまどらがおすすめです。
http://www.tsunashima.com/shops/yamadaya/

※エピソードネタ

歌手、三橋美智也は下積み時代 綱島温泉東京園でボイラーマンをしていました。その後成功し温泉ホテルに関心が強く、熱海に温泉ホテル「サン三橋」を建てます。皮肉にも綱島温泉のように時代に合わず、経営に失敗し手放します。現在はホテルサンミ倶楽部となっています。

2月 25

No.56 2月25日 絹と女と桑畑

イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会のオフィスがあった居留地1番に建つシルクセンター界隈は横浜の歴史を語る上で欠かせない場所です。1969年(昭和44年)の今日、シルクセンター開館十周年を記念して彫刻家安田周三郎氏の「絹と乙女」像と桑が植樹されました。

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数年前の写真です。現在はかなり剪定されています

light_英一番館84(最近の写真追加しました。悲しいくらい切られていました)

1959年(昭和34年)横浜開港100周年を記念して建てられたシルクセンターについては後日ご紹介します。
今日は、十周年記念として、シルクに因んだ桑の木と絹をテーマにした「絹と乙女」像の作者、彫刻家安田周三郎についてご紹介しましょう。

桑の木は絹を生成するために欠かせない蚕の食料です。良質な桑を生産し安定した温度の下で生育した蚕の繭から良質の絹が生まれます。シルクに桑は欠かせません。
彫刻家安田周三郎(1906年-1981年)は東京生まれで東京美術学校を卒業し彫刻の道に進みました。日展の審査員、評議員を歴任します。横浜国立大学で教授として教鞭もとり多くの教え子を送り出しました。安田周三郎は地元横浜に教師としてゆかりのある彫刻家ですが、彼の姻戚関係は華麗なる一族としても深く横浜に関係があります。
安田周三郎は、安田善三郎の三男として生まれました。
安田財閥創設者善次郎の孫にあたります。安田善次郎の名は鶴見線「安善」駅に残っているように横浜で成功した財界人です。
周三郎は善三郎の三男となっていますが、実は四男でした。
では三男は誰か?
歌舞伎ファンには有名な話しですが、安田善三郎の三男は十三代目 片岡仁左衛門です。十一代目片岡仁左衛門の養子に入りこの世界で人間国宝になります。
兄は画家の安田岩次郎で息子は建築家の安田紫気郎と魚類学権威の安田富士郎です。財界人だけではなく、様々な分野に逸材を出した一族です。
周三郎の妹、磯子は小野家に嫁ぎその娘がオノ・ヨーコです。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=565

2月 25

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

開港時、横浜には様々な国籍の外国人がいました。
イメージ的にはイギリス、フランス、アメリカが目立っていますが、長崎で長く日本とつきあってきたオランダ人も活躍していました。
1860年(安政七年)の今日、オランダ人C.J.HUFFNAGELが居留地70番に日本初のホテルを開業しました。

mms_20100910_0013米国が結んだ修好通商条約に従いオランダと日本が新しく
1858年8月18日(安政5年7月10日)江戸で日蘭修好条約が結ばれました。
ちなみに列強五カ国は同時ではなく個別に修好条約を結びます。
※日米修好通商条約 安政 5年6月19日(1858年7月29日)
※日蘭通商修好条約 安政 5年7月10日(1858年8月18日)
※日露修好通商条約 安政 5年7月11日(1858年8月19日)
※日英修好通商条約 安政 5年7月18日(1858年8月26日)
※日仏修好通商条約 安政 5年9月3日(1858年10月9日)
オランダは、米国に次ぐ二番目の締結でした。
最初に締結した<日米修好通商条約>の批准書を交換するためにアメリカに渡ったのが「万延元年遣米使節団」でした。
この時に太平洋を渡った船が「ポーハタン号」、ペリー日本再訪の際の来日した黒船の一隻でした。「万延元年遣米使節団」正使として新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とするチームでしたが、その随行で(ついでといっては失礼ですが)アメリカに向かったのが「咸臨丸」です。その後、なぜか「咸臨丸」の方が有名になってしまいました。
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2


今日番外編で咸臨丸

今日番外編で咸臨丸


No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

【横浜雑景】グランモール公園

オランダと修好通商条約を締結した翌年の1859年、
開港場横浜に一隻のオランダ船が入港します。フフナーゲル(C.J.HUFFNAGEL)船長率いるオランダ国王の名を持つ「ナッソウ」号です。入港の目的は未確認ですがフフナーゲル船長は「ナッソウ」号を売却しその資金でホテルを開業します。その名も「YOKUHAMA HOTEL」(YOKOHAMAではありません)ですが、船の名から「ナッショウ住家(ホイス)」と呼ばれました。しかもチームナッソウのクルーも従業員となります。沈まない船を運営したようなものです。
この「YOKUHAMA HOTEL」オープニングに訪れた(可能性大)二人のオランダ人船長が二日後、江戸幕府を震撼させる事件に巻き込まれます。1860年2月26日の夜午後7から8時頃、本町通りあたりでオランダ人船長のW・デ・フォス(WesseldeVos)と、N・デッケル(JasperNanningDekker)が外国人排斥を狙う攘夷派によって斬殺される事件が起りました。生麦事件が起る二年半前の出来事です。
初めて日本が外国に賠償金を支払うことになった事件です。
「YOKUHAMA HOTEL」のメンバーも近くで起きた事件だけにかなり驚いたに違いありません。
現在居留地七十番の場所には「レストラン かをり」があります。洋上ホテルである豪華客船の元料理長が開いたお店がこの場所にあるのも何かの縁でしょう。

新聞広告の文面
YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
The undersigned hegs to intimate that be has just opened the above establishment where families and others can be accommodated with comfortable Board and Lodging, in good style and at moderate charges.
The Hotel is well furnished amd beautifully situated,and.having now supplied a long recognized public want,the undersigned relies on the support of residents and visitors,to whose comfort and couvenience every attention will be paid.
C.J.HUFFNAGEL
9ju Yokuhama,February 24th,1860.

2月 25

No.53 2月22日 アーティストツーリング

明治の画壇を牽引した黒田清輝は1902年(明治35年)の今日、東京から横浜まで観梅を兼ねてツーリングに友人七人と出かけました。
全員30代から40代の当時なら中年(ちょいわるおやじ)軍団だったかもしれません。

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本文とは直接無関係ですが明治からサイクリングは人気だったようです

黒田 清輝は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家で薩摩藩士黒田清兼の子として生まれました。
通称は黒田新太郎と呼ばれていました。
「くろだせいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」です。
築地英学校から東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏します。
当初は法律を学ぶことを目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い子供の頃学んだ絵画への思いが起ち、1886年に画家に転向することを決意します。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた日本洋画界の巨星です。

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代表作

黒田の日記には下記の通り書かれています。
二月二十二日 土
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
戦前は杉田は梅の名所でした。自転車で観梅ツーリングなんて
なんてしゃれている嗜みでしょう。

ここに登場する8人とは誰だろう?調べました。


●久米桂一郎(1866〜1934)佐賀出身、洋画家36歳。
http://www.kume-museum.com/corner_kei.html
佐野昭(1866〜1955)江戸出身、彫刻家36歳。
菊池鋳太郎(1859〜1944)江戸出身、彫刻家43歳。
小代為重(1860〜1951)佐賀出身洋画家42歳。
中丸蓮一か?東京出身
小林万吾(1870〜1947)讃岐出身、洋画家32歳。
合田清(1862〜1938)江戸出身、版画家40歳。
黒田清輝(1866〜1924年)鹿児島出身、洋画家36歳。

黒田、久米、佐野は同年代で最年長は菊池鋳太郎の43歳です。
このツーリング計画は事前に計画され、その予行練習もおこないました。
明治期は、自動車もほとんど普及していない時代ですから、最先端の移動手段でした。彼らだけではなく、ツーリングブームだったようで、横浜の自転車店も最先端ショップとして繁盛したようです。
(白馬会創立)
このツーリングに参加したメンバーの多くが黒田清輝を中心に発足した従来の画壇に一石を投じようと集まった洋画団体「白馬会」同志でした。
1911年(明治44年)3月、白馬会は、所期の目的を達したとして解散しました。

実は彼らは 事前にちょっとリハーサルをしていました。
二月十六日 日
久米 合田 佐野 中丸 伊藤の五人と自轉車にて雜司ケ谷邊ヨリ飛鳥山へ出田畑根岸へ廻る
二月十七日 月
自轉車修繕の爲合田同道三田四國町へ行 午後二時より文部省ニ於て會議
二月十九日 水
夕刻押川氏 鈴木貫一郎氏を訪ふ 夜自轉車にて三河臺町小代方まで行く
二月二十一日 金
始めて自轉車にて學校へ行 歸路山口勝氏 佛公使館 Andre 氏夫妻ニ逢ふ

もう一つ
 偶然の一致ですが2月22日にもう一つ 自転車に関する偉業が横浜から始まりました。

1902年(明治35)2月22日
日本人初の自転車世界旅行を「中村春吉」が横浜港を出発します。
この時期の自転車は既に現代の自転車とあまり変わっていません。
タイヤも空気入りのセーフティー型が使用されました。
1903年(明治36年)5月に帰国します。
この偉業は 本にもなっていますので どこかで読んでみようか?
と思っています。

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ということは 横浜で撮影?
2月 25

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒(ビール)」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。

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開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。
当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。

(起業都市横浜)

成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。

その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。E3-82-AD-E3-83-AA-E3-83-B3-8.58.05 No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
(関連ブログ)
No.40 2月9日 日諾交流