8月 26

【横浜風景史】伊勢山皇大神宮

「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後の急激な近代化する横浜港の鎮守様として野毛山に1870年(明治3年)創建されました。
 【伊勢山皇大神宮】
所在地:横浜市西区宮崎町64
宮司は池田正宏さん。
祭神は「天照皇大神」。
http://www.iseyama.jp
もともと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園の東北端あたり)にあった大神宮を、1870年(明治3年)に当時の神奈川県権知事だった井関盛艮によって、野毛山(現在地)に遷座して伊勢山皇大神宮と称えました。「横浜の総鎮守」とも呼ばれ以降この一帯は伊勢山と呼ばれるようになりました。
社殿は1926年(大正12年)関東大震災で倒壊焼失しましたが、
1928年(昭和3年)に再建されまた。
境内には野毛の鎮守であった「子の大神」も祭られています。裏参道には水神宮があります。神殿は堀立柱の唯一神明造鋼板茸ですが、
2020年(平成32年)の創建150年を期に伊勢神宮の部材を用いて建て替えることになります。
これは中々の出来事です。
例祭日は五月十五日。
境内には他に「明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)」「以徳報怨」「蒋公領徳碑(昭和六一年)」「万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)」などがあります。

伊勢山皇大神宮と子どもたち
伊勢山皇大神宮と子どもたち
伊勢山皇大神宮と子どもたち
桜の頃の伊勢山皇大神宮と親子
親子で参拝
 


■一神明造鋼板茸の社殿

神明造鋼板茸の社殿
神明造鋼板茸の社殿
神明造鋼板茸の社殿
 

境内の風景
参道の風景

人力車で春の参拝

伊勢山 その風情は変わりませんが
周囲は 驚くばかりの変化です。

8月 20

第909話 【大岡川運河エリア史】江戸湾編

素人調べレベルと予め宣言しておきます。
大岡川河口域に広がっていた<内海>は絵図を見ると新田開発が始まるまでは、漁場だったようです。<横浜の砂州>が冬場の北波を防ぐ防波堤の役割をしていたから中々の漁場だったのではないでしょうか。
その後、吉田新田干拓(1667年)によって、<内海>の漁場が野毛村近辺と横浜村外海が漁村として残された他は、いわゆる農業が行われました。
ただ新田がすぐに稲作に適した土地になることは無く、塩抜きを含め数年にわたる手入れが必要でした。干拓には約11年かかり、順次上流域から耕作地となっていきましたが幕府から正式に新田として認められるにはもう少し時間がかかります。
江戸時代、八割は百姓でした。その大半が農業従事者だったので百姓=農民と表現されるようになりますが、百姓は稲作中心の農民という姿以外にも多彩な生活スタイルを持っていました。
(百姓=地域に生きる多能工)
半農半漁、農業ができないから漁業も。
逆に漁業だけでは生活できないから農業も。
といった表現は百姓=農民、米生産者からの視点です。
石高制の幕府にとって米生産者は 最も歓迎すべき納税者でした。
現代におけるサラリーマン(源泉納税層)みたいなものです。
漁業従事者は一般的に網役(あみやく)という漁業年貢を収めていました。
年貢米と同様に、共同体単位で収めていたようです。

十七世紀に入り、兵農分離で闘う武士が都市生活者となり、安定した徳川時代が訪れます。治水・利水技術の発展と普及で山間地農業が河川域全般に稲作が広がり、江戸時代は急激に人口増と米の収穫増となります。
ただ、稲作は労働集約型なので人力が必要でした。
また江戸期からの農業は限られた田畑に<肥料>を投入する集約農業スタイルとなります。特に都市近郊農業は<糞尿>を有料で購入し投入することで収量を増やしていきます(金肥)。
では海辺や谷戸ばかりで<平地>の少ないエリアでは どのような生業で集落共同体は成り立っていたのか?
地に生きるとは、地(海)から恵を得ることです。生業とはそういうことです。
海付の村、海辺からすぐに谷戸となる地域の多い横浜は
農・漁・搬送を複合的に生業とする「漁師百姓」によって村落共同体が形成されていました。
漁場を巡る争い
19世紀に入り「内海三十八職」という取り決めが江戸湾内漁業従事者の間で行われます。江戸湾で認められた38種類の漁法のことです。
当時、江戸前には84の浦と、18の磯付(いそつき)村があったといわれていますが漁場を巡る争いも多く、都度話し合いによって解決してきました。
江戸時代も後期に入ると 都市近郊の在郷町に市場経済が発達し
漁業も江戸市場への稼ぎ頭となってきたため 漁法規制が必要になってきました。

文化13年(1816年)6月
江戸湾沿岸の相模・武蔵・上総の漁村44の代表が集まって会合を開き、一通の議定書を作成します。
・各漁村は毎年春に会合を開くこと。
・御菜八ケ浦が年番で代表を務め、会合の開催やその他重要なことは廻状によってそれぞれの村に伝えること。
・各郡にも年番の惣代を置いて議定書の内容を守らせるとともに御菜八ケ浦や他郡の惣代との連絡を行うこと。
・新規漁法を原則禁止とし、どうしても行いたいとする希望が出されたならば会合における合意を得ること。
等を取り決めます。
◆江戸湾内湾漁撈大目三十八職」または「内湾三十八職漁法」
手繰網(一名うたせ)
三艘張網
鮑漁
貝草取(貝藻取)
揚繰(あぐり)網
とび魚漁
こませ流し網※
肥取漁(ひとり網)
地引(ちびき)網
このしろ網
鰆(さわら)網
張網
貝類巻※
縄舟漁縄編漁
小晒(こさらし)網
投げ網※
あびこ流(網)
六人網
小貝桁網※
鰻掻(うなぎかき)
のぞき網(漁)
八田網
釣職一式(釣船)
海鼠(なまこ)漁
たいこんぼう網(一名かひかつら網)
鵜縄網
小網
ころばし網
鯔(ぼら)網
鯛縄
貝桁漁
いなだ網
四手(よつで)網※
丈長網
白魚網
藻流し網
歩行引網(かち網)
たつき(たたき)網
このしろ網
ななめ網
竿小釣網
※四十一種類ありますが
時期によって 種類が異なったようです。それにしても多彩です。

◆従来から使用を認められた漁具「小職」
簣引網、ズリ網、尨魚引抜網、蛎万牙漁、蛎挟漁、蜆流網、アサリ熊手漁、アミ漁網、サデ押網一名糖魚網、不笊漁、ウナギ筒網、ウナギ筌漁(方言ウケ、ドウ)、ウナギ抄(方言メボリ)、サザエ引網、鰌漁網、ボッサ縄、海苔桁網(方言ケタ網)
※その後追加された漁法
「エビケタ網」

領域を多彩な分類によって一つ一つ決めていくのは日本のお家芸ですね。

参考文献
「東京都内湾漁業興亡史」東京都内湾漁業興亡史刊行会
「巨大都市と業業集落」成山堂書店
安室 知(神奈川大学) 論文
「百姓たちの江戸時代」ちくま
「江戸日本の転換点」NHK

8月 20

第908話 【大岡川運河エリア史】漁師百姓

大岡川に関心を持った中で
江戸期の百姓の姿を知りたいと考えました。
そこで
この夏の集中テーマを江戸の「百姓」に置き 学習計画を立てました。
大岡川下流域、横浜村エリアに暮らした百姓の姿を推理するには何が必要か?
と考えたからです。
1667年に吉田新田が完成した以降、開港までの横浜村エリアの百姓はどんな暮らしをしていたのか?
●大岡川運河エリア
ここでは「横浜村エリア」を
吉田新田に関係するエリア=「大岡川運河エリア」と考えました。現在の「関内外エリア」という表現ではどうもしっくり来なかったので、大岡川運河エリアとしました。
では大岡川運河史をざくっと!まとめます。大岡川河口域に「吉田新田」が完成する前は蒔田あたりまで<海域>でした。
蒔田一帯は「塩田」や「漁業」を生業とする百姓が中心
吉田新田が1667年に完成したことで まずこのあたりの経済構造が大きく変わっていったと想像できます。
<海域>から<川域>になり
大岡川右岸から派川として中村川が誕生します。
干拓による人工の河川なので「運河群」といって良いでしょう。
吉田新田完成によって大岡川運河が誕生します。
中村川河口は?ちょっと判断が難しいです。
堀川ができるまでは大岡川本流の河口あたりで合流することになっていますが
現在の石川町駅あたりからは小さな入海ともいえます。(後の派大岡川)
この出口右岸側に浅瀬・沼地ができるようになり、
「太田屋新田」「横浜新田」ができあがます。
開港によって この地域の役割が大きく変わり
開港場が登場し 堀川が開削されて 関内出島が誕生。
おそらく このあたりで中村川が明確に見えてきたことで一般的に「中村川」となったのでは?<勝手な推理>
明治に入り
堀割川が完成し、吉田新田一帯の灌漑用水が整備され運河化して
一応の「大岡川運河エリア」整備が終わります。(つづく)

8月 14

第907話 九隻のペリー艦隊

ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

8月 7

【ミニミニ観光横浜】掃部山そうぶやま

今日は掃部山の話です。
掃部山は(かもんやま)と読みます。初めて出会う方には難読地名の一つです。
まず読めません。どう読んでもそうぶやまですよね。
ここは明治期に鉄道省の土地で、後に民間の管理を経て市の公園となりました。

桜の名所としても有名です。この掃部山の名は幕末の歴史を大きく変えた井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の「掃部」から採ったものです。ここには現在、井伊直弼の銅像が建ち、一角には関東最古の能楽堂が移築されています。

衣冠束帯をつけて正装した男の像が何故ここに建っているのでしょうか?

「開国の恩人」としてすんなり顕彰されたからではありません。現在掃部山に建つ「井伊直弼像」は二代目で戦後に復活したものです。

井伊直弼、日本近代史を学ぶ時必ず登場する彦根藩主であり時の大老は、その評価が未だ大きく分かれます。

彼をテーマにしたブログも幾つか書きました。

No.193 7月11日(水) Hi Come on!

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=414

No.■180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521

ここで改めて 掃部山に建つ「井伊直弼像」を通して、横浜を舞台にした歴史の謎について少し紹介しましょう。

■1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定しました。(横浜近代史総合年表)」
とあるように、井伊直弼の顕彰碑を建てようという活動は明治10年代から彼の故郷「彦根」から起こります。

明治維新後の日本国内における井伊直弼の評価は、散々なものでした。
井伊大老が指示した「安政の大獄」により弾圧された各藩の要人・知識人の多くが新政府の幹部となったからです。幕末明治に活躍した明治維新の要人は薩長土肥と呼ばれた倒幕派の若き<革命家>達も含まれていました。
実は<日本の近代化>を最初に支えた官僚の多くは旧徳川幕府の優秀な幕臣達でした。
倒幕派の若き<革命家>達は清濁合わせながら、露骨な藩閥政治も行い、都合の良い朝令暮改も繰り返しながら近代国家づくりに奔走したのです。

その明治政府をけん引するリーダー(革命家)達にとって井伊直弼は<大獄>の恨みある憎き江戸政治の象徴となっていきます。一方、藩閥政治に不満を持つ人達には 開港を英断した井伊直弼をヒーローとして再評価する動きが活発化します。

明治政府内部でも様々な派閥争いが起こります。
新政府最大の危機が「明治十年の西南戦争」という近代最大で最後の内乱が起こります。
その後大隈重信を巡って「明治十四年の政変」が起こり、福沢諭吉を含め啓蒙派の言論人が政治の場から去っていきます。
官僚機構を整備する中、省庁間の利権争いも重なり、明治国家が少しずつ歪な権力構造のまま膨らみ此の歪みが日本の政治を停滞させていきます。

横浜を例に取れば、横浜港築港計画ではイギリスをバックにした「大蔵省」とオランダを支持する「内務省」の軋轢があったように、井伊直弼を巡る顕彰碑建立では「内務省」と反内務省との対立も鮮明になります。

ここに掃部山の井伊直弼像のたどった運命を少し長くなりますが年表にしておきます。

(井伊直弼碑から像へ)

■1860年(安政7年)3月24日
三月三日桜田門外の変

■1881年(明治14年)11月
有志 井伊直弼像、在東京建碑委員を選定

■1882年(明治15年)7月
建碑位置、横浜戸部不動山案を提案したが否決、東京案となる。

同年10月
上野東照宮境内案 申請。11月に内務省内否決、不許可に。

■1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地の払下げを願い出る。

■1884年(明治17年)1月
地所開墾に着手。

同年3月22日
東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定

■1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われる(26日〜28日)

■1888年(明治21年)3月20日
島田三郎<開国始末>(付録 井伊掃部頭直弼伝)

■1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」発足

■1893年(明治26年)
旧臣の集まりが「旧談会」を発足

同年8月
神奈川県知事 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、井上馨大臣拒否。

■1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」が内務省(西郷従道)から却下

■1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定。設計に着手。

■1909年(明治42年)6月
銅像竣工。開講五十周年式典挙行。

同年7月1日
神奈川県知事、横浜市に銅像除幕式中止を申し入れ、中止延期。

同年7月11日
除幕式強行。大隈重信、英国総領事ら出席他600人。

■1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立

■1914年(大正3年)11月7日
横浜の掃部山公園として開園。
※土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)

■1916年(大正5年)7月
「井伊直弼朝臣頌徳会」発足

同年11月
「井伊直弼朝臣頌徳会」「旧談会」が「無根水会(むねみ)」となる。
※無根水は直弼の茶号。

■1917年(大正6年)
大正天皇、彦根行幸の際 直弼像には訪れず。

■1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。

■1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」が未遂。
※横浜の右翼団体

■1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。

■1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。

■1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 竣工。

同年6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。

■1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も

■1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催

■1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備

■2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備

Category: 歴史を変えた人物, 横浜絵葉書 | 【ミニミニ観光横浜】掃部山そうぶやま はコメントを受け付けていません
8月 5

第905話 【占領下の空】

終戦直後の福富町

この写真は約7割が空となっています。
カメラマンは何故?
敢えてこの広い空を構図の中に取り込もうとしたのでしょうか?
撮影場所は野毛山中腹(現在の西区東ケ丘あたり)かプール(今無い)あたりか?
<風景を読む>
手前に京浜急行が走り、日ノ出町駅舎は隠れて見えません。
高架線の途中にある構造物は京急の変電所でしょう。
その先には大岡川が流れ、アーチ橋長者橋、左側に桁橋宮川橋が見えます。
福富町の殆どが空襲で焼失し、米軍によって整地され、接収の準備が始まっています。
後にこのエリアには第八軍宿舎(カマボコ兵舎)が立ち並びますが
まだ臨時のテント設営段階のようです。
横浜関内外エリアは戦後、ほとんど接収となり戦後復興が滞りました。
このエリアは、開港後の「慶応の大火」以降 「関東大震災」「横浜大空襲」「戦後接収」と地域の機能不全の中から立ち上がってきた経験があります。
遠景のスカイラインに ランドマークとして「神奈川県庁」が確認できます。
<横浜三塔>の一つである「横浜税関」は県庁に重なって確認できないようです。手前に「開港記念会館」がぼんやり見えます。
長者橋近くには、『和菓子屋 しげた』の裏にあった「倉」が写っています。
貴重な風景です。
細かく拡大することで、色々な建物を読み取ることができますが、
今日の本題に戻します。
何故、カメラマンは広い空を選んだのでしょうか?
手前の日ノ出町一帯は幸運にも空襲の被害は少なかったようで、街並みが残りました。
この風景から、焼け残った風景(家並み)は切り取られました。
何も残っていない風景を強調したかったのか?
この写真はアメリカ人から譲り受けたものですが、撮影者が日本人なのか在留アメリカ人なのかは不明です。
撮影時期は昭和20年の秋か21年の初めあたりと推定しました。

復興したエネルギーも大切ですが、
失ったモノを忘れない エネルギーも重要です。