今日紹介する<風景>は、未解決の一枚です。少し謎が解けてきました(後部で紹介)
ここは何処でしょうか?
手がかりは多いのですが確定できていません。分からないままご紹介します。
謎の風景を特定するのは楽しい作業です。
一つのヒントであっけなく解けてしまうこともあれば判りそうで全く判らないものもあります。
今回は謎の風景を読み解けるだけ解いていきたいと思います。
(風景を読む)
まず最大の読み解きポイントが<木柱>です。
「明治四十三年三月 横濱市役所」
最も具体的なヒントとなっています。
横浜の 明治43年、1910年3月はどんな時期だったか?
明治末期で、20世紀に入り横浜の都市整備本格的にが始まったころです。
1903年(明治36年)10月8日 合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)
1904年(明治37年)2月10日 日露戦争(〜05年9月5日)
3月9日 横浜鉄道株式会社設立
7月15日 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
10月 「実業之横濱」創刊1905年(明治38年)
10月23日 横浜沖で凱旋観艦式、行幸。
1906年(明治39年)5月 三渓園 開園
9月 横浜製糖株式会社創立。
10月 帝国肥料株式会社創立(本社 横浜)。
12月 「横濱貿易新報」発刊(貿易新報を改題)
※「実業之横濱」と「横濱貿易新報」 横浜メディアの誕生
1907年(明治40年)1月 横浜生命保険株式会社創立。
1908年(明治41年)3月18日 朝日新聞社主催の世界一周会に参加の57人(婦人3人)横浜を出帆。
この女性の一人が横浜の野村みち(38歳)です。
9月23日 横浜鉄道(東神奈川ー八王子間)開通。
白船艦隊来港
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
1909年(明治42年)7月1日 横浜で「開港50年祭」挙行。
7月11日 政府関係者の反対を押し切り横浜掃部山で井伊直弼の銅像、除幕式。
1910年(明治43年)3月19日 野毛3丁目から出火。630戸焼失。
この時期の横浜は第一次市域拡張(1901年)から第二次市域拡張(1911年)の間にあたります。
(同時期の風景と比較)
■派大岡川
下記の絵葉書は1910年の風景です。
この絵葉書は指路教会が見えることから派大岡川河畔、吉田橋上伊勢佐木寄りから大岡川方向、宛名面のタイムスタンプが1910年(明治43年)です。
画像はそれ以前の発行と推理できますが、発行年は不明。
指路教会は1892年(明治25年)ヘボンの尽力により建てられたものなので、少し時期は絞りこめます。さらに左奥に小さく写る橋は柳橋で、1905年(明治38年)の地図によると柳橋たもとに横須賀行きの船着き場がありました。
当時使われていた船の大きさから<派大岡川>のスケールが良く判ります。■橋
不明風景に戻ります。
川には木製の橋が架かっています。 橋脚は四基、構造は在来工法による湾曲した桁橋。川幅は写り込んでいる人物から推測すると橋脚は14〜15m、川幅はもう少しあるでしょうか、当時の横浜市内ではかなり大きい川です。画面左側の川岸は広い道となっていて材木店が建ち並んでいます。
岸側が電信柱、陸側が電力柱のようです。
対岸、画面右側には<板塀>が張り巡らされ木造三階建て・煉瓦の洋館が建ち並んでいます。両岸の風景が明確に異なっている点もこの風景の特色です。
1910年頃の市域範囲からこの川は「大岡川」とその支流であろうことは推理できます。
中でも川幅からは「派大岡川」の風景と推理できそうですが少し狭いようにも感じます。
確証がありません。継続調査していきます。
【新展開】
お世話になっている本牧の郷土史研究家の長澤さんからここは吉田川「長島橋」ではないか?という資料とヒントをいただきました。
横浜橋側から川下に「長島橋」を観る風景と推定すると、右側が真金遊郭、左が駿河町一丁目ということになります。真金の建物の風情もこんな感じかもしれません。駿河町の材木店も探すヒントになるかもしれません。この年の翌年に路面電車が通ります。
これを軸にさらに追いかけてみます。まずは御礼と訂正追記を報告します。(2019.07)
この橋はホームページ「明治の横浜手彩色写真絵葉書」に示される吉田川の長島橋です。但し、「明治の横浜手彩色写真絵葉書」で長島橋としている事が正しいが前提です。
「明治の横浜手彩色写真絵葉書」の絵葉書写真を反転する必要があります。その上で2枚を見比べるとまず納得されると思いますが、①橋の欄干、橋桁が一致 ②橋の右側の門柱が一致 ③門柱からの板塀の一致
④塀の中の建物も一致⑤左側に横浜市役所と書かれた木柱と同様なものが2基ある
⑥左側の岸側が電信柱、陸側が電力も一致
以上の点より、吉田川の長島橋です。
長沢博幸