ここにある一枚の絵葉書には、弁天橋に大きなモニュメント(ゲート)が建てられ、日米の国旗が飾られています。上にはWELCOM 下には
「BANKERS & MERCHANTS YOKOHAMA」という看板が掛かっています。
横浜の商工会こぞって歓迎 という感じでしょうか。
位置的には、初代横浜駅側から 関内方向を向いていると思われます。 時期は 1908年(明治41年)10月
米国大西洋艦隊が世界一周の途中で横浜に来航する際、横浜の歓迎模様を記念絵葉書にしたものです。
米国大西洋艦隊は16隻の軍艦で構成され、白く塗られていたことから「白船」Great White Fleetと呼ばれました。
米国大西洋艦隊の日本来航「白船艦隊」については別項で紹介します。
ここではその当時の横浜を中心に紹介しましょう。
開港50周年を翌年(1909年)に控えた横浜市では、全体的にお祭りムードでしかも当時の“険悪になった日米関係”を吹き飛ばすウェルカム感覚だったのかもしれません。市長は開口50周年を担当した三橋信方、ハマ市章や市歌を制定しました。
1908年(明治41年)崎陽軒が(初代)横浜駅構内の営業許可を得た年でもあります。また「横浜鉄道(後の横浜線)」もようやく(9月23日)開業し、横浜市内のインフラも少しずつ整備されてきた時期にあたります。
(弁天橋)
かながわの橋100選に選ばれている弁天橋、初代横浜駅から関内に渡る“玄関の橋”として多くの人が利用してきました。現在の橋は1976年(昭和51年)3月に竣工しました。
弁天橋が最初に大岡川に架かったのは1871年(明治4年)のことです。弁天橋は早期に整備された横浜港に向かう<港國道>の一つ「國道第一号」が通る横浜最初の国道に架かる橋です。現在は国道133号線となっています。
初代は木造の桁橋でした。
1873年(明治6年)にレンガを巻いた鉄筋コンクリート製の橋台と橋脚の上に木造のアーチ橋が掛け替えられます。この時に歩道も設けられ四隅の橋柱にはガス灯がありました。
そして、「白船来航」に合わせた?のか開港50周年記念事業だったのか調べていませんが1908年(明治41年)9月にしっかりとした“プレートガーダー橋”に架け替えられました。
この絵葉書は その竣工記念の意味合いもあるのかもしれません。
その後の弁天橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災しますが倒壊することはなく多くの人命を救うことになります。
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了します。
(ウェルカム弁天通)
明治初期にこの弁天橋が架かることで、市民の多く利用した「吉田橋」に対し、横浜駅を中心にした表玄関として本町通り・弁天通りが栄えます。関内の横軸として<本町通り>が交通のメインストリートとなり、<弁天通り>は関内のショッピングストリートとなっていきます。明治・大正・昭和前半、この通りは<ウェルカム弁天通り>と呼ばれ、横浜関内の銀座通り的な商店街として賑わいます。ここでも庶民の伊勢佐木、来訪者の弁天通りといった役割分担が出来上がっていました。
いまでこそ 関内の横軸は あまり違いが無くなってしまいましたが、昭和期まで関内の横軸線の各通りには個性がありました。
再度 縦軸と横軸を活かしたまちづくりを編んでみる時期でしょう。
当時発行された「米国大西洋艦隊(白船艦隊)」歓迎の絵葉書