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No.456 自由ハンザ都市ブレーメンの気風

7月1日は横浜が開港した日です。
現在横浜では6月2日が開港記念日ですが、
ここに幕末明治の「暦」事情が隠されています。
今日は この有名な昭和3年事件は置いといて…

開港一番に入港した外国人達の話しを紹介します。
列強五カ国との間に結んだ「通商友好条約」では各国との開港日がバラバラでしたが、1859年7月1日に統一します。
約束だけではなく 各国と交易を行う準備が必要となってきます。
日本政府は、各藩・地元民間の有力者に命じて「開港場」=居留地と横浜道の整備を命令します。かなりの突貫工事だったようです。
「横浜道」に至っては開港前日に完成したそうです。
なんとか 体裁が整い 7月1日に外国船を受け入れる準備ができますが
前日30日に横浜港に到着したのが亜米利加船籍の一団で、
ハリス公使以下外交団でした。
そこは 日本政府(徳川幕府)も条約を楯に明日(7月1日)まで待て!
 と米国船団を横浜沖に留め置くことにし7月1日に「亜米利加一番」として手続きします。
亜米利加船とは異なり条約通り7月1日開港日に堂々入国したのが「阿蘭陀船」シキルレル号(Schiller)です。
幕府の認可番号は「阿蘭陀一号」で、250t 乗組員12名だったそうです。
五カ国の中で開港日に入国、入港したのは
亜米利加と阿蘭陀でした   が
実際は 阿蘭陀船籍のドイツハンザ都市の船でした。
阿蘭陀船籍で偽装した背景にはこの時代のドイツ(プロシア)が抱える政治状況がありました。ここに乗船していたのはデュッセルドルフ出身自由ハンザ都市ハンブルグ商人のルイス・クニフラーでした。
到着早々、幕府の用意した外国人専用の貸家を申込早々に商館の開設に動き出します。
このルイス・クニフラーが横浜に初めて商館をオープンした外国人商人です。
福沢諭吉の自伝に
「五国条約というものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処に住まって店を出している。
其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。
此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。」
福沢が「英学」に方針転換した有名なカルチャーショックの一説ですが、
ここに登場する“キニッフル”こそルイス・クニフラーのことです。
蘭商キニフルとも呼ばれ武器商人としても活躍します。
冒頭にクニフラーをデュッセルドルフ出身ハンブルグ商人と紹介しましたが、この当時のドイツはブレーメン・ハンブルグを中心に独立性の高い都市国家(自由ハンザ都市)として世界を舞台に交易を行っていました。
そして、ハンブルグ商人クニフラーは、ブレーメン出身の優秀な人材を日本担当に起用します。
長崎で実績をあげ横浜進出責任者として赴任してきたのが
マルチン・ヘルマン・ギルデマイスター(GILDEMEISTER)です。
ギルデマイスターは、横浜で日本との通商条約締結に動きますが、最終的にプロシア王国の代表団として日普通商友好条約締結に奔走します。


ドイツ北部に位置する大都市「ブレーメン」といえば?

ブレーメンの音楽隊を思い浮かべる方も多いかもしれません。
ブレーメンはドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つです。
正式名称は「自由ハンザ都市ブレーメン州」の州都です。
ドイツと日本の開国をめぐる関係は
No.413 あるドイツ人の見た横浜

でプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団とその通訳にあたった森山栄之助のエピソードを紹介しました。
冒頭で紹介しました通り、ブレーメンは「自由ハンザ都市ブレーメン」と現在でも名のっています。

ギルデマイスターの業績
ギルデマイスターは、当初居留地横浜で少数派だったプロシア人(ドイツ人)を組織化しドイツ人倶楽部をまとめあげます。
最終的には在横浜プロシア名誉領事となります。
1868年(慶応四年)明治維新直前にアメリカ経由で母国ドイツブレーメンに帰国します。

■プロイセン王国とブレーメン
プロイセン王国は「十字軍時代の三大宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地方に植民を行って成立したドイツ騎士団領を基に発展し、16世紀に公国、18世紀初頭1701年に王国となった」国です。
ところが、ブレーメンはかつてハンザ同盟だったハンブルクとともに、1871年まで独立した都市国家として欧州経済をリードします。

1871年にドイツ帝国の一部となりますが、関税上(交易上)独立していました。
完全にドイツ帝国に組み込まれたのは1888年(明治30年)になってからのことです。
(余談)
ブレーメンといえば????
サッカー・ブンデスリーガに属するヴェルダー・ブレーメンのホームタウンです。ブンデスリーガ優勝4回を誇る強豪で、日本初のプロ選手である奥寺康彦も在籍していたチームです。
奥寺康彦がサッカーとで出会ったのが横浜市立舞岡中学校です。そして相摸工大付属高校から古河を経てドイツへ渡った日本初のプロ選手です。
現在、株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長を務め横浜で頑張っています。

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