No.413 あるドイツ人の見た横浜

昨日、紹介した森山 栄之助に関する人物観察が多くの来日外国交渉団に記録されています。
その代表がペリー率いる日本遠征団とプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団です。
今日はプロイセン王国のオイレンブルク伯爵使節団を通して記録された日本(横浜)の印象を紹介しておきましょう。

オイレンブルク伯爵使節団一行


(プロイセン艦隊来航)
1860年9月(万延元年)に日本へ到着したプロイセン東洋遠征艦隊は通商条約の締結を要求します。
1858年(安政5年)に結んだアメリカ他の欧米列強との通商条約(一般的に安政五カ国条約)と同じ条約締結を求めてきました。
日本側の代表は磐城平藩(現在のいわき市の中心を治めていた藩)藩主であった老中の安藤信正があたり、プロイセン側は後にプロイセンの内相となる外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵が全権代表として交渉にあたります。

プロイセン王国

日本側はこの時期、日米修好通商条約の調印を巡って分裂した朝廷・幕府関係の修復を図るために公武合体策のまっただ中でした。攘夷の意思が強かった朝廷の意向を損ねる恐れがある行動にでることができず日普交渉は膠着します。
この交渉は1858年に新設された外国奉行(神奈川奉行兼務)の“堀 利煕”に任されますが、ここでパーセプションギャップの悲劇が起ります。
交渉の過程で条約内容にプロイセン以外のドイツ諸国との条約が含まれている事が責任者の安藤信正と認識違いが起り“堀 利煕”を問い質します。
※この時プロイセン代表オイレンブルクは統一前のドイツ関税同盟(ハンザ同盟)の代表も兼ねていたためできれば全ての国とも条約締結を目指していました。それが他国との同時締結と捉えられ老中の怒りとなりました。
利煕はそれに対して弁解せず、プロイセンとの条約締結直前に切腹という責任の取り方をします。これにはプロイセン側も驚きを隠せませんでしたが、粘る交渉の過程で、プロイセン単独の条約締結にこぎつけます。
この時のプロイセン側の通訳にはアメリカ公使ハリスの通訳でもある元オランダ人ヒュースケンがあたり、日本側は森山多吉朗(栄之助)が担当していました。

ヒュースケンは、オランダ語、オランダ語と近いドイツ語、英語、フランス語ができたため、日本にいた諸外国の殆どの言語に対応できるスーパー通訳でした。
また、日本側の優秀な通詞、森山多吉朗とも信頼関係が築かれてきた矢先のできごとでした。
オイレンブルク日本遠征記の中で通詞達とのやりとりを「われわれの年齢については、彼らはずっと若く考えていた(日本人は比較的年をとって見えるのである)。酒井は四十三、堀織部は四十一、森山は三十八歳だった。森山は、いろいろ多くの事件、仕事が彼をこんなに年寄りにしたのだと主張した。」
とあります。実際に森山は、激務のため見る見るうちに老け込んだと他の資料にも書かれていますので、特にふけ顔だったのでしょう。

日本側は、直ぐに同じく外国奉行の村垣範忠を後任にします。
来日から半年の交渉の末、ようやく
1861年1月24日(万延元年12月14日)に日本とプロイセン王国との間に、日普修好通商条約が成立しますが、
その10日前の1月15日の夜、大事件が起ります。
攘夷志士によるヒュースケン殺害事件です。
プロイセン使節団の宿舎・赤羽接遇所を出てアメリカ公使館のある善福寺へ帰る途中に、待ち伏せしていた5〜7名の侍に切りつけられ瀕死の状態で善福寺に運ばれます。手当てもむなしく翌16日にヒュースケンは亡くなります。
アメリカ公使ハリスの片腕ともいえるヒュースケンの死はハリスにとって悲しみと怒りの対象となりましたが、これを外交問題とせずプロイセン側も事を荒立てず日本政府はことなきを得ます。
※当時、外国人に対する殺傷事件が多発していて、ヒュースケンにも再三注意を喚起されていた矢先の事件でした。

(ビスマルクの片腕)
プロイセン王国代表、オイレンブルク伯爵は帰国後ドイツを統一したビスマルクの片腕としてプロイセン内相になった優秀な外交官でした。
彼が来日中(1860年のクリスマス)に公館にクリスマスツリーを飾った記録が残っています。これが日本最初のクリスマスツリー設置記録と言われています。
彼らは約半年の交渉の合間に、江戸近辺を散策し長崎にも旅行しています。
当時は、攘夷運動が盛り上がっている日本でしたので、外国人団の外出は大変両国とも気を使った行動だったようです。
交渉団一行の一部は横浜に滞在していました。
この横浜に関して、幾つかの興味深い記述がされています。


横浜ホテル(YOKUHAMA HOTEL)

No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
横浜の発展のようす
横浜の商店、中でも動物商
友好的な土地の人々の描写
マンダリン岬(本牧岬)付近
横浜での商取引 等々的確な観察記が残されています。
中でも、中村川の堀割(元町の横を流れる)については詳細に
外国人居留地を運河で囲み『第二の出島』にする計画だと地理的に分析しています。
※『オイレンブルク日本遠征記』は、発展の様子が数年の変化を下に訪日後数年経って記述されてるので興味深いものがあります。


その後、プロイセンはヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクの下でドイツ統一の道を進みます。日本でのドイツは、幕末から明治にかけて英米仏とは一線を画し中立的立場をとります。この当時新興国で幕藩体制に似ていたドイツに日本の指導陣が心惹かれていくことで、多くのお雇い外国人を招聘し、留学生を送り医学、法律、軍隊制度他 ドイツの影響を強く受けるようになっていきます。
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
ちょっと横浜に関する内容が希薄なので

別に外国人の見た「横浜」特集を組みますのでご勘弁下さい。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください