幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。
横浜道に埋め込まれている道標 |
開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。
静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。
不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。
通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。
外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。
安政6年の開港場 |
「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。
開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。
ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。
(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。
横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。
この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!
明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。