第990話 近代・ミシン・横浜(2)

シンガー日本市場を席巻
戦後生まれの人には<ミシン>といえばシンガー以外にジャノメ・ブラザー(安井兄弟社)・ジャガー(丸善ミシン)といった国内メーカーが登場しますが、戦前は圧倒的にシンガーでした。 幕末、横浜に初めて上陸したミシン=sewing machineは
明治期に認知されるようになり、洋服を製造する産業機械として輸入されました。
和服から洋服への転換が必要であった<軍><警官><鉄道員><郵便夫>他公務員の制服製造への導入を皮切りにミシンは日本全国に普及していきます。
キャッチアップが得意な日本人は、輸入されたミシンを元に国産化に挑戦しますが、20世紀に日本上陸を果たしたシンガーによる内製化した大量生産体制の前にほぼ独占状態を許します。
シンガーミシンの成功は後の自動車産業とほぼ同じ歴史を歩みました。フォードはシンガーの成功例に多くのことを学んだかどうかは不明ですが、
シンガーミシンの企業戦略の特徴は
本体機械と部品規格化し内製化を進め、訪問による月賦販売や操作指導(学校開設)といった総合的な販売システムであったことです。
一時期は、日本全国ミシンはシンガー!という時代を築きますが、昭和初期に起こった横浜を舞台にした一大争議と戦争というタイミングから一気に日本市場から消滅し、戦後もシェアを取り戻すことができませんでした。
簡単にシンガーミシン史をベースに洋服と日本におけるミシン普及の足跡を追ってみましょう。 <>は日本国内関係
1851年(嘉永4年)創業者アイザック・メリット・シンガーが(I.M.Singer & Co.)を創立。
 第1号実用ミシンの特許取得。
1853年(嘉永6年)シンガーミシン1号機が100ドルで発売される。
1855年(安政2年)パリ万国博覧会で最優秀賞を受賞。
1856年(安政3年)個人向け月賦購入制度、分割払い販売等を考案。
1858年(安政5年)年間売り上げが3000台達成。
1863年(文久3年)所持特許数が22に登る。シンガー裁縫機械会社として資本資産550,000ドルを超え初代社長はインスリー・ホッパー就任。
<日本国内では、横浜居留地97番にピアソン婦人がドレスメーカーを開店、ヒュースケンがミシンを輸入し横浜の商館で展示する、日本人がミシンを購入>
<山岸民次郎横浜山下町舶来屋「オランダ屋」に住み込み>
1865年(慶応元年)Singer Manufacturing Company に改称。
1866年(慶應2年)<セールス・フレーザー商会(洋服店)開業→翌年閉店し道具一切を佐藤与次郎に譲渡>
1867年(慶応3年)スコットランドのグラスゴーでミシン海外製造開始。
<片山淳之介「西洋衣食住」の中で背広を紹介>
<この頃の洋服製造技術は横浜居留地に集中、東京には洋服店が殆ど見当たりませんでした>
1871年(明治4年)<茅場町に「柳屋」開店>
1872年(明治5年)<明治天皇が初めて西洋式スーツを着用して公の場に登場>
 <慶應義塾衣服仕立局を開設、ミシン2台購入>
1877年(明治10年)<西南戦争に伴い軍服大量生産のためミシン導入>
1883年(明治16年)シンガー生産拠点英国に拡大。
 クライドバンク市に週に10,000台生産可能な巨大製造工場設立。
1884年(明治17年)半期販売数、横浜490台、長崎90台、兵庫55台(635台)
1887年(明治20年)<この頃から足袋縫製にミシンが導入される>
1889年(明治22年)初の電動式ミシンを発売。
1890年(明治23年)シンガー東京有楽町に本部を設立。(1900年説もあり)
<5月10日嘉仁親王(大正天皇)、九条節子(さだこ)と結婚。>
<陸軍被服本廠 設置>

1901年(明治34年)横浜・神戸「中央店」を軸にシンガー全国販売体制を短期間に整備。
1903年(明治36年)首位だったドイツ製を抜き首位に。農商務省を辞して秦敏之入社。
1904年(明治37年)ミシン裁縫女学院 神田区表神保町一番地に設立の記事あり。 1905年(明治38年)<第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪で来日。昭憲皇后に面会した際皇后から「アメリカのミシンが欲しい」とリクエストがあった>

1906年(明治39年)”シンガーミシン裁縫女学院”を東京・有楽町に開校(設立願受理)。極東支配人は秦敏之で校長は妻の秦利舞子(はたりんこ)。その後、大阪、横浜他各地にも裁縫女学院を開校。
1907年(明治40年)3月 269名在籍。4人でミシン1台という学習環境。秋には定員1,000人へ。生徒20人に13台程度の環境とある。
1908年(明治41年)<名古屋で安井商会=ブラザー設立>
1910年(明治43年)”シンガーミシン裁縫女学院”閉鎖。
1912年(大正元年)”シンガー裁縫刺繍院”開設。
1913年(大正2年)シンガー世界販売数250万台を突破。
1914年(大正3年)第一次世界大戦の影響でドイツ製ミシンからシンガー全盛期に。
1916年(大正5年)”シンガー裁縫院”に名称変更。
1918年(大正7年)大阪神戸横浜に中央店、全国に30監督所、600店の支店。
1919年(大正8年)<並木婦人子供服裁縫教授所、開校>
1921年(大正10年)<パイン裁縫機械製作所=ジャノメ、設立>
1922年(大正11年)<並木婦人子供服裁縫教授所、文化裁縫学院→文化学園>
1926年(大正15年)<杉野芳子「ドレスメーカー・スクール」開校>
1927年(昭和2年)<横浜洋裁専門女学院=岩崎学園 創設>
1929年(昭和4年)ミシン輸入が最高潮に年間61,144台に達する。
 国内シェア95%に達する。
1932年(昭和7年)※シンガー労働争議 横浜が最も最大の闘争舞台に。
1934年(昭和9年)<パインミシン、中野工場敷地内に日本洋裁学校開校>
1938年(昭和13年)<東京重機製造工場=JUKI、発足>
1939年(昭和14年)アメリカが対外物資輸出を禁止しミシンが含まれる。
ミシンと日本の近代
<参考文献>
参考文献「ハマことば」
外国資本に対して史上最大の労働争議となった
※ 1932年(昭和7年)シンガーミシン騒動は
大正期から昭和にかけて起こった多くの労働争議とは異なった背景の中で、その後のミシン業界が大きく変化するキッカケになりました。
(つづく)
Facebook Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください