「品川の圓蔵」こと4代目橘家圓蔵(本名 松本栄吉)が、横浜伊勢佐木の「新富亭」で急死し記念碑が弘明寺観音に建てられた話は以前紹介しました。
「No.109 4月18日 品川の名人濱に死す」
今日も、落語家の話しです。
落語家の紹介には苦労します。
落語家、まず誰の下に弟子入りしたか?時には師匠が変わることもあります。
生涯何回かその名が変わります。
さらに、名跡を継ぐことで、(何代目)◎■△と系譜を踏むことになります。
加えて所属団体(落語の同業者組合)も幾つかあって、これまた余り仲がよろしくないというから話しがこんがらがってきます。
完全にほぐすことはできませんがハマの噺家を紹介しましょう。
網羅していませんが横浜出身の噺家は結構多いようです。
(濱出身の噺家)※後半で紹介します
3代目 笑福亭松鶴(1845年〜1909年3月30日)
初代柳家三語楼(1875年3月〜1938年6月29日)※
6代目春風亭 柳枝(1881年1月〜1932年3月1日)※
4代目古今亭志ん馬(1889年3月26日〜1961年8月2日)※
7代目橘家圓蔵(1902年3月23日〜1980年5月11日)※
4代目桂米丸(1925年4月6日〜)
金原亭伯楽(1939年2月16日〜)
9代目雷門助六(1947年1月13日〜)
三遊亭左遊(1953年9月28日〜)
五明樓玉の輔(1966年1月4日〜)
桂歌丸(1936年8月14日〜)※
立川談奈(1972年8月18日〜)
立川志の八(1974年5月24日-)
5代目柳家小せん(1974年6月28日〜)
(特別横浜関係噺家)
初代快楽亭ブラック
1858年12月22日(安政5年11月18日) – 1923年(大正12年)9月19日)
No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子
(初代柳家三語楼)
本名は山口 慶三さん。
家業は廻漕業で、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ出身という異才落語家です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ
英語が堪能でしたので少年時代には外国人商社等で働いていたそうです。
英語が堪能と言えば
前述の初代快楽亭ブラックは「日本語が堪能な」噺家でした。
4代目橘家圓喬に入門し後に3代目柳家小さん門下で三語楼を名乗ります。
大正期を代表する人気落語家の一人で、古典落語に大胆なアレンジを加え新しい境地を開きます。
最初の師匠圓喬を崇拝し「俺が死んだときは、師匠から貰った袴が大事にとってあるから、それをはかして棺の中へ入れてくれ」と遺言していたそうです。
(6代目春風亭 柳枝)
横浜商業学校出身で「横浜の柳枝」と呼ばれました。
実家が「ゴミ六」という居留地の清掃業で、地域消防団の親分でもあったらしくポンプゴミ六と呼ばれていたそうです。
前述の三語楼とは同時代のライバル、横浜出身噺家として活躍します。
→追加情報がわかりました。
実家の「ゴミ六」は 本名「石橋六之助」他に通称“十六番”と呼ばれていたそうです。現在の千葉県蓮沼出身で東京(当時江戸)でオールコックに仕えていたそうです。東漸寺事件で襲撃にあった時にオールコックを助け横浜まで逃げた時に随行した功績で居留地内でビジネスを始め道路改装、道路清掃を請け負います。
一方で、居留地消防団として活躍し薩摩町近辺の消防の頭目となります。
「そらゴミ六のポンプが来た。火は消えるぞ」といわれたほど信用があったそうです。
六さんは、火消しの途中で二階から落ち怪我をして以来人事不詳となり長患いの末 1906年(明治39年)4月21日73歳で亡くなりました。外国人とも積極的に交流した人物で、多くの人に慕われていたそうです。
※情報追加2013年4月28日
(古今亭志ん馬)
本名は、金川利三郎。
「No.109 4月18日 品川の名人濱に死す」
で少し触れましたが、4代目橘家圓蔵と並んで弘明寺に碑が建てられています。
15歳の時に5代目笑福亭松喬(後の2代目林家染丸)に入門しますが横浜「新富亭」の高座に上がっている時に立花家橘之助に見出され3代目古今亭志ん生の門をたたき古今亭を名乗ります。「横浜の志ん馬」と呼ばれました。
落語関係のコレクターとして三遊亭圓朝の遺品を含め落語史の一級資料を保管し寄席文字家元の橘右近が受け継いで今日に至っています。
(7代目橘家圓蔵)
本名は市原虎之助、現在の石川町駅近くで生まれました。
Wikiでは「本名 市川虎之助」とありますが 誤記です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓蔵_(7代目)
虎之助の母“安”は千葉県茂原市の旅籠「大黒屋」の長女。
虎之助の父“直吉”は千葉県茂原市の旅館内田屋出身で、母となった“安”とは幼なじみだったそうです。直吉は若くして亡くなり、弟の金之助と再婚します。
母“安”は二人の夫の間に十二人の子供を育て、末っ子が市原虎之助(7代目橘家圓蔵)として育ちます。
二人目の夫金之助も虎之助が4歳の時に亡くなり
八百屋に養子に出されたり、姉に引き取られたりと彼の疾風怒濤の人生が始まります。
洋服屋から始まり、横浜吉岡町の鍛冶屋から渡り職人となり、吉原の牛太郎(遊女屋の客引き)や、外国航路船のコックなど職を転々としますがその間、遊びで寄席や遊興の寄席芸に触れることになります。
芸人になることを選び1923年7月に8代目桂文楽に入門しますが素行の悪さで破門、
4代目鈴々舎馬風の紹介で7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)一門に移籍し柳家治助を名乗りますがこれまた破門。
噺家を辞め、寄席で奇術の手伝いや吉原、名古屋、大阪で幇間など様々な職に就きます。
(それでも芸人の近くにいたのは、この世界への未練?相性が良かったのでしょうか)
1941年(昭和17年)に40歳の二つ目として再度文楽一門で出直すことになります。
1946年(昭和21年)3月に4代目月の家圓鏡襲名真打昇進。
1953年(昭和28年)3月に7代目橘家圓蔵を襲名します。
林家正蔵没後に「林家三平」一門が圓蔵の下に入りますが、過去に破門された師匠の弟子ということで「林家三平」と「橘家圓蔵」とはかなり確執があったようです。
長くなってしまいましたが、
噺家の世界が全て“おどろおどろしい”訳ではありません。
芸一つで生きていくキャパの広い世界であることは間違いありません。