このシリーズを書いてみようと思った出発点は開港のために造成した野っ原あたりのことを知りたいと思ったことに始まります。
幕府がペリーとの交渉で「神奈川開港」を約束してから実際には横浜を提案しアメリカを筆頭に各国の外交官と居留地をどこにするか揉めたことはご存知のことと思います。
建前は「神奈川湊」でしたが、
実際は日米交渉を行った「横浜村」に決定しました。
外交は内政でもあります。諸外国同士の関係と国内の関係が絡み合いながら、外交交渉は決着を求めます。
米国として来航したペリーと初めての国との外交交渉、周辺国と比較しても上々の出来だったのではないでしょうか。開港条件の結果評価に関しては別のテーブルにしましょう。
さて
交渉の結果、横浜村には決まったけれど、長らく外国人との交渉経験が長崎出島程度だった幕府の役人にとって新しく外国人居留地をどう作っていったのか?
この<横浜村に開港場ができていくプロセスを知りたい>と思い文献を探りましたが簡単にまとまったものは探し出すことができませんでした。 今も断片を探っている途中です。
手元にある資料で判った範囲を追いかけてみたいと思います。
第一回冒頭でも書きましたが、横浜村の人々は突然の命令にかなりびっくりしたと思います。ただ、1854年(嘉永7年)にペリーが再来した際、横浜村のど真ん中「駒形」が交渉場になりました。現在の開港広場、開港記念会館あたりです。
ペリー艦隊の休憩所や宿泊所も村内に準備しました。
この時、横浜村の人々は、間近で<異国人>との出会いを経験しています。
「この村を外国人と日本人の新しい開港場とする!」という後の命令にもワンクッションあったので、寝耳に水では無かったでしょう。でも大事ではありました。
■ハイネの横浜
ペリーが再来港し開港交渉が行われました。この様子は幾つか絵図や記録が残っているのである程度想像することができます。
艦隊に随行したドイツ人ハイネが描いた横浜村駒形でも<日米交渉の絵図>はあまりにも有名です。この一枚の絵図からも様々な当時の様子を読み解くことができます。
その前に1点
ペリー再来港が早くなった理由をwikipediaでは
「1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。」
この解説には歴史的根拠がありません。ペリー悪玉論の恣意的な記事だと私は考えます。
現在定説となっているのが<ロシア艦隊の来航>があったため、交渉を急いだ説です。
私もこの説を支持します。
多くの研究者が長いロシアとアメリカの関係からペリー一行が急いだ点を指摘しています。
この時のロシア対日担当はプチャーチンでした。
実はロシアは対日外交に関しては江戸中期ごろから着実に交渉を重ねていました。
ラクスマン、レザノフが日本とおこなってきた中身の濃い交渉の歴史があり、レザノフに至ってはアメリカとの深い因縁もあり、ペリーは相当焦りを感じていたと推測できます。
ペリーとほぼ同時に来航したプチャーチンは日本を知るシーボルトの進言にしたがって、江戸は目指さず、日本のルールに従い長崎に向かいます。
帝国としての外交プロトコルを大切にしたのです。
ペリーに遅れること1ヵ月半後の1853年8月22日(嘉永6年7月18日)に長崎に入港し、江戸から幕府の全権が到着するのを待つ間にロシアの国運を変えたクリミア戦争が勃発し、一時期日本を離れ中国に向かうという空白はありましたが、事態が落ち着いた時点で再び長崎に戻り交渉を始めます。
この時の幕府全権は幕末幕府外交の先頭に立った「川路聖謨(かわじ としあきら)」「筒井政憲(つつい まさのり)」で最強コンビと言っても良い組み合わせでした。
プチャーチンとは計6回に渡り開港に関する交渉を行いますが、合意に達しませんでした。
(しっかりコミュニケーションはとった)上での交渉決裂でしたが、
ペリーは中国に滞在中でロシア日本訪問の情報を手に入れます。ある資料では、ロシアからの協力依頼があったという記述もありました。
当時、ロシア帝国にとって日本は未知・未開の小国で、アメリカは新参者・若輩国の意識で、ペリー艦隊の行動力と交渉力を甘く見ていたところがあったようです。
ペリーは帝国ロシアの先を急いだようです。
長くなってしまいました。
この先は次回に分割します。いよいよ 開港場整備に迫ります。