No.55 2月24日 YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA

開港時、横浜には様々な国籍の外国人がいました。
イメージ的にはイギリス、フランス、アメリカが目立っていますが、長崎で長く日本とつきあってきたオランダ人も活躍していました。
1860年(安政七年)の今日、オランダ人C.J.HUFFNAGELが居留地70番に日本初のホテルを開業しました。

mms_20100910_0013米国が結んだ修好通商条約に従いオランダと日本が新しく
1858年8月18日(安政5年7月10日)江戸で日蘭修好条約が結ばれました。
ちなみに列強五カ国は同時ではなく個別に修好条約を結びます。
※日米修好通商条約 安政 5年6月19日(1858年7月29日)
※日蘭通商修好条約 安政 5年7月10日(1858年8月18日)
※日露修好通商条約 安政 5年7月11日(1858年8月19日)
※日英修好通商条約 安政 5年7月18日(1858年8月26日)
※日仏修好通商条約 安政 5年9月3日(1858年10月9日)
オランダは、米国に次ぐ二番目の締結でした。
最初に締結した<日米修好通商条約>の批准書を交換するためにアメリカに渡ったのが「万延元年遣米使節団」でした。
この時に太平洋を渡った船が「ポーハタン号」、ペリー日本再訪の際の来日した黒船の一隻でした。「万延元年遣米使節団」正使として新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とするチームでしたが、その随行で(ついでといっては失礼ですが)アメリカに向かったのが「咸臨丸」です。その後、なぜか「咸臨丸」の方が有名になってしまいました。
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2


今日番外編で咸臨丸

今日番外編で咸臨丸


No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

【横浜雑景】グランモール公園

オランダと修好通商条約を締結した翌年の1859年、
開港場横浜に一隻のオランダ船が入港します。フフナーゲル(C.J.HUFFNAGEL)船長率いるオランダ国王の名を持つ「ナッソウ」号です。入港の目的は未確認ですがフフナーゲル船長は「ナッソウ」号を売却しその資金でホテルを開業します。その名も「YOKUHAMA HOTEL」(YOKOHAMAではありません)ですが、船の名から「ナッショウ住家(ホイス)」と呼ばれました。しかもチームナッソウのクルーも従業員となります。沈まない船を運営したようなものです。
この「YOKUHAMA HOTEL」オープニングに訪れた(可能性大)二人のオランダ人船長が二日後、江戸幕府を震撼させる事件に巻き込まれます。1860年2月26日の夜午後7から8時頃、本町通りあたりでオランダ人船長のW・デ・フォス(WesseldeVos)と、N・デッケル(JasperNanningDekker)が外国人排斥を狙う攘夷派によって斬殺される事件が起りました。生麦事件が起る二年半前の出来事です。
初めて日本が外国に賠償金を支払うことになった事件です。
「YOKUHAMA HOTEL」のメンバーも近くで起きた事件だけにかなり驚いたに違いありません。
現在居留地七十番の場所には「レストラン かをり」があります。洋上ホテルである豪華客船の元料理長が開いたお店がこの場所にあるのも何かの縁でしょう。

新聞広告の文面
YOKUHAMA HOTEL-KANAGAWA
The undersigned hegs to intimate that be has just opened the above establishment where families and others can be accommodated with comfortable Board and Lodging, in good style and at moderate charges.
The Hotel is well furnished amd beautifully situated,and.having now supplied a long recognized public want,the undersigned relies on the support of residents and visitors,to whose comfort and couvenience every attention will be paid.
C.J.HUFFNAGEL
9ju Yokuhama,February 24th,1860.

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください