No.412 多吉郎、横浜に死す。

今日は一人の幕末に生きたある<外交官>を紹介します。
森山 多吉郎。
恐らく、殆どの方にとって初めて聞く名だと思います。
彼は横浜を舞台にした世紀の日米外交の通詞(通訳)として活躍した人物で<外交官>という表現は的確ではないかもしれません。ただ、彼は単なる通訳としてではなく国家間の価値観を理解し合うための役割を果たした人物です。
どこかで彼を紹介したいと漠然とですが資料を探っていました。

「幕末の外交官 森山栄之助」という本で彼が横浜で急死したことを知り、彼の晩年にも関心がでてきましたので森山のアウトラインを紹介し日米交渉の顛末は後日に紹介することにします。

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森山 多吉郎は、一編の長編小説の中で あるアメリカ人と共に描かれています。
「海の祭礼」
吉村昭の秀作の一つです。
歴史作家“吉村昭”は、司馬遼太郎と並ぶ、近代を描いてきた偉大な人物です。
彼の「海の祭礼」に登場する
森山 多吉郎は、1820年7月10日(文政3年6月1日)に代々オランダ通詞を務める長崎の森山源左衛門の家に長男として生まれます。
ある時期まで、彼は森山栄之助と名のります。
彼もまた、有能なオランダ語通詞として家業を継ぎますが、時代はオランダ語以外の語学も必要に迫られてきた幕末に突入します。

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(あるアメリカ人ラナルド)
「海の祭礼」はロシアと国境と開国で揺さぶられる北海道宗谷地方から幕が開きます。
ペリー来航の五年前スコットランド人とネイティブアメリカンの間に生まれたラナルド・マクドナルド(Ronald MacDonald, 1824年2月3日〜1894年8月5日)が
日本に来たい一心で漂流民を装い、北海道に上陸します。

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彼は 日本の法律によって、長崎に移送され監視下に置かれますが、この時に英語の必要性を感じていた長崎通詞の森山栄之助と出会い“英語”をレッスンすることになります。
日本国内で初めてアメリカ英語を学んだ日本人です。
二人の友情は深く結ばれ、アメリカ本国に帰国(送還)したラナルドは、最後まで日本を懐かしんでいたそうです。
この英語力習得が彼の人生を大きく変えます。
蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として、長崎から江戸に舞台を移し来航したペリー一行の通訳を担当します。
当時のロシア、ドイツ、イギリス、アメリカ他の外交日誌には森山の名が優秀な外交官として登場しますが、日本での通詞の位置はかなり低く見られていたようでほとんど文献には登場することはありませんでした。外交交渉に長けた
・領事ハリスやオールコックとの巧みな交渉力。
・ロシア使節プチャーチンとの熾烈な交渉
・プロイセンとの条約交渉
 に森山が重要な役割を果たしています。

No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る

1862年(文久2年)1月
一旦開港したものの、国内の攘夷運動の高まりから
開港延期、国境問題等で渡欧した文久遣欧使節団(竹内保徳遣欧使節団)の通訳としてオールコックと同船しイギリスに赴きます。(〜1863年1月)
ここに福沢諭吉も通詞として乗込んでいましたが実践力は圧倒的に森山だったと想像できます。

巧みな外交の国イギリスのオールコックが「信頼しうる英人と情報交換できる」人物と評した彼、森山の英語力と交渉力は優れてたことが皮肉にも外国人によって記録されています。

幕末、江戸(日本)では英語を学ぶ手だてが大きく三つありました。
1 森山に代表される長崎通詞による英学
2 ジョン万次郎に代表される漂流民による英学
3 幕府が設立した蕃所調所での英学
このチャンスを活かした人物として福沢諭吉や福地源一郎がいます。
森山栄之助は、英語普及にも努め、当時の英学辞書だった「英蘭対訳辞書」本から日本語と英語の辞書を編纂しますが多忙のため中断となります。
また公務のかたわら、江戸小石川に英学塾を開きます。
ここに沼間守一、津田仙、福地源一郎が学びました。

No.287 10月13日(土)翔ぶが如く

(謎の多い森山)
幕末から明治にかけて、多くの幕府通詞は新政府の下でも仕事があったため新政府に残ります。
敢えて、徳川家にということで静岡藩に移る通詞もいましたが、

森山は 役職を捨て新政府には加わりませんでした。
「海の祭礼」でも森山の晩年については触れていません。
その他の森山関係資料でも「東京で急死」とあるだけでその間の事情については不明のままでした。
ところが、親友だった福地源一郎の資料には森山が横浜で外国人相手の通訳をしていたとありました。
1871年5月4日(明治4年3月15日)横浜で急死し、妻と4人の子供が残されます。
彼の悲報を知った福地源一郎は、森山の長男と三女を引取り育てます。
三女梅子は福地源一郎の養女となり、同時代を生き静岡藩に移った通詞“西吉十郎”の息子と結婚しました。不思議な縁というか、激動の時代を生きた通詞の間には一種の<仲間>感覚があったのではないでしょうか。

※交渉相手だった諸外国から見た日本と交渉役だった森山との<外交交渉>に関しては 別の機会に紹介することにしましょう。
【追伸】
森山栄之助について

前置きが長く 息が切れてしまい
核心部分が抜けてしまいました。

森山は、幕府の通詞時代とても老け込んでいて
40代でも老人に見える程でしたが、幕府の立場を
通詞として有能な官僚として素晴らしい外交センスを駆使した人物でした。。

維新前夜、滅び行く江戸幕府を前に
彼に残された選択肢の中で、最も静かな道を選びます。
それが横浜での暮らしでした。
自由で、過去のしがらみもない街で森山は一時の平穏を味わったのではないでしょうか。
彼の上司であり親友だった福地源一郎
彼と関係の深かった沼間守一は
自由民権運動の道に進みます。
 No.287 10月13日(土)翔ぶが如く

同じ通詞として重責を担った堀達之助は明治になり北海道へ
西吉十郎は、静岡藩から薩摩藩にそして法律家となります。
時代と政治に翻弄された通詞達。今一度歴史の舞台で光を当てるべき人たちでしょう。

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