No.409 二国五郡物語

横浜の古代中世に昨日No.408で触れた流れで、今日はその後、
七世紀後半から八世紀にかけての横浜をざくっと紹介しましょう。
街歩きにちょこっと役立つ程度です。

現在の横浜市域は、古代国家の時代
二つの国(今の県みたいなもの)
その下の五つの群に分かれていました。
(二つの国)
二つの国は
武藏国(むさしのくに)
相模国(さがみのくに)
この二つの国境は、おおよそ現在の藤沢市と横浜市の市境を流れる境川で分かれていました。

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(五つの群)
武藏国(むさしのくに)の
都筑郡(つづきぐん)
久良郡(くらきぐん)
橘樹郡(たちばなぐん)

相模国(さがみのくに)の
高座郡(たかくらぐん)「太加久良」
鎌倉郡(かまくらぐん)

(郡域の変化)
一気に時代を明治に飛ばします。
明治初期も、江戸時代の地域割を維持しながら郡制を敷きますが
ちょっと古代と異なっています。

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久良郡(くらきぐん)→16世紀ごろから久良岐郡に
橘樹郡(たちばなぐん)→エリアの拡大
古代の郡域は鶴見川を境に分かれていましたが、中世には
星川・仏向・程ヶ谷(保土ヶ谷)他が橘樹郡になっています。
この辺は簡単にしておきます。

(横浜市域は都筑郡・久良郡)
現在の横浜市域に古代の都筑郡・久良郡がほぼ入ってしまいます。
その他の橘樹郡・高座郡・鎌倉郡は、明治以降の市域拡大で
その一部を編入してきました。
古代の分け方で言えば、横浜は異なる地域の混成エリアともいえるでしょう。
余談ですが
横浜で一番新しい区が都筑区と青葉区ですが、「都筑」の名が候補に挙がった時は、新しい住民(居住年数20年未満)が殆どだったこのエリアの住民には“つづき”の名になじみがありませんでした。歴史を記憶する「地名」を残すことは大切だと私は思います。
この都筑、時折「都築」と誤記が起ります。明治時代にも「都筑」ではなく「都築」と表記している文献があるくらいですから 間違いやすい地名といえるかもしれません。
「つづき」「つずき」の違いです。
間違えないようにしたいものです。

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和名類聚抄

(郡の下に郷)
古代
国の下に郡、
郡の下には郷がありました。
都筑郡には
餘部(あまるべ)
店屋(まちや)
驛家(うまや)
立野(たての)
針斫(はざく)※石偏に斤(文字化けの場合)
高幡(たかはた)
幡谷(はたのや)

久良郡には
鮎浦(ふくら)→六浦庄
大井(おおい)
服田(はとだ)
星川(ほしかわ)
郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)
諸岡(もろおか)
洲名(すな)
良崎(よしはし)
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news21-4.html

現在に残る地名が幾つかあります。
逆に 殆ど無くなってしまいました。
立野(たての)
針斫(はざく)→八朔
星川(ほしかわ)
諸岡(もろおか)

このように
七世紀後半から八世紀にかけて古代国家が領地を明確にしていきながら成立していきます。領地には管理(支配)する役所と寺社が設置されていきます。
武藏国の国府は、多磨郡(現在の府中市)
相摸国の国府は、大住郡(現在の平塚市)→平安時代に現在の大磯に移ります。
 ※国府の湊(津)で国府津(こうづ)の名が残っています。

一方、役所と共に寺社が設置されますが
武藏国(むさしのくに)→氷川神社
相模国(さがみのくに)→寒川神社
以下郡にも役所と寺社が創られていきます。
横浜で郡の役所と共に建立された寺といえば「弘明寺」です。
次回は
この弘明寺の近現代を紹介しましょう。

驛(うまや)の食卓
古代の地名から命名かどうかオーナーには確認してませんが、
美味い横浜ビールは「驛の食卓」です。
http://www.umaya.com

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