この文章を作成中(14日)に横浜は豪雪?
で機能麻痺の状態です。
今日は 横浜と福井の繋がりについて紹介しましょう。
(越前福井藩)
横浜は開港後、全国の商人・武士が集まり、
居留地の外国人達と開港場の日本人による寄合所帯で構成されていました。
開港場の情報は、いち早く全国に伝わり
歴史で学ぶ「尊王」「攘夷」他の様々な動きが横浜を情報源として活発になっていきます。
1858年(安政5年)7月に幕府は、開港場である神奈川と横浜の警備を
伊予松山藩と(坂の上の雲の素材となった)
越前福井藩に 命じます。
ところが、福井藩主松平慶永(春嶽)は拒否します。
理由は井伊政権への反発もありましたが、藩財政が逼迫していたことも大きかったようです。
逆に越前藩のブレーン橋本左内を中心に代替え案を検討させます。
これに激怒したのが時の大老 井伊直弼です。
1858年(安政5年7月5日)8月13日
一連の“安政の大獄”による松平慶永(春嶽)は言いがかりにも似た不時登城の罪を問われて強制的に隠居・謹慎となります。橋本左内もその後、獄中死し幕末の賢人を失います。
藩主が蟄居し、急遽新しく第17代福井藩主となったのが越後国糸魚川藩第7代藩主松平 茂昭(まつだいら もちあき)です。
この頃の徳川幕府は藩主に関して、現代のサラリーマン社会にも似た人事システムで動いていましたので、藩主ポストの異動で“お国の殿様”が決まったようです。
逆に徳川諸藩で江戸時代に藩主のお国替えがなかったのが井伊家の彦根藩でした。
松平 茂昭は再度横浜警備の要請を受け、現実路線を選びます。
越前福井藩は幕府直轄領(天領)だった
武藏国久良岐郡太田村に19,000坪を借り受け
500人の常駐する陣屋を突貫工事で完成させます。
大岡川の沼地を開墾しての造成のためかなり苦労したようです。
ここが、現在の日ノ出町・黄金町一帯です。
昭和初期 市電が走り京急はまだの頃 |
しかし、藩の経済は逼迫していましたから
越前福井藩は開港場にいち早く、藩命による商館を建てます。
藩財政建直し策の重要方針として長崎と横浜に輸出商社を設立し、その収益を藩の収入に充てようと考えた訳です。
今でいう「県の物産店」みたいなものですかね。
横浜開港は、
全国諸藩とそのトップに立っていた幕藩体制に「情報」「経済」の波が押寄せます。
幕末、多くの藩が自前で「国防対策」を迫られ、貿易力の差が明治維新の原動力にもなっていきます。
横浜町五丁目 大通北側に
横浜村名主の一人だった石川徳右衛門名義で90坪の土地を借り
表間口6間、奥行き15間の大きさで
「石川屋」を開きます。
開店当初は 与助という人物を支配人に雇いますが
商売が発展するに伴い福井藩から警備で赴任していた人物が、
専任でビジネスに関わっていきます。
当時の「横浜錦絵」にも多く登場したということですから
大変賑わったのでしょう。商売は横浜も長崎も順調に発展していきます。
横浜の越前福井藩ショップ!を担当したのが
越前屋金右衛門 またの名を
石川屋善衛門
本名を 岡倉 覚右衛門といいます。
ここでピーンと来た方もいらっしゃると思います。
彼の息子が 岡倉角蔵、後に岡倉覚三となり
一般的には 岡倉天心の名で 明治期に大活躍します。
No.280 10月6日(土)天心と三渓
No.9 1月9日(水)残した大正の財産
その後の「太田陣屋」は
1866年(慶応2年)に歩兵・騎兵伝習所
1870年(明治3年)には県吏員の子弟への漢学教授を目的とする文学所が設けられますが、
陸軍の用地として収用され
戦後 民有地となり問屋街として賑わいますが
時代の趨勢で 問屋は数軒を残すのみとなり
現在に至ります。
No.471 横浜・世田谷・彦根