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No.280 10月6日(土)天心と三渓

1905年(明治38年)10月6日の今日、
岡倉天心(42歳)は横浜港からミネソタ号に乗船し、アメリカ東海岸ボストンに向かいます。3度めの訪米でした。

天心が設立に貢献した東京芸大

岡倉天心【1863年2月14日(文久2年12月26日)〜1913年(大正2年)9月2日)】といえば、横浜開港記念会館の入口近くに岡倉天心の記念碑があります。
彼は、東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、
明治期の日本美術界に多大な功績と影響を与えました。

越前松平藩士の子として赴任先の開港直後の横浜(当時本町一丁目→現在は本町5丁目)で生まれことを記念して碑が建っています。(実家で生まれていますが)。

その後、12歳まで横浜で過ごし英語・漢学を含めた教育を受けます。この時に英語を学んだ所が野毛の高島英語学校ともいわれていますが、異説もあります。

1905年(明治38年)10月6日の渡米は、ボストン美術館からの二度目の招聘で顧問に着任するためでした。半年間滞在し、1906年(明治39年)4月6日に帰国します。天心は3回ボストン美術館に顧問として着任しました。このアメリカ時代に数多くの著作、日本美術理解のための活動を行います。この第二回ボストン美術館勤務時代にニューヨークで代表的著作「茶の本」(The Book of Tea)の出版準備を進め、1906年(明治39年)5月に発刊されます。
彼の業績については他の資料に譲ります。横浜絡みに戻ります。

岡倉天心は幼少時代に横浜で過ごした以外は年譜から横浜を見いだすことはできませんが、彼の人生で何時も心の中にあり、忘れられない横浜の人物がいました。最後まで横浜を見捨てなかった実業家「原富太郎」です。
横浜の原家は初代原善三郎が興し、生糸貿易により財を築きます。三渓園となった土地は初代が購入したものです。二代目の原富太郎は、善三郎の孫娘と結婚し原家に入ります。個人商店を会社組織に改組し、横浜の政財界に多大な影響力を持ち、横浜発展に尽力しました。三渓自ら書画にも長け、多くの作品を残しています。

三渓園

本牧に現在も残る三渓園は、二代目原富太郎の創った名庭園です。
※多くの経済人は東京シフトするなか、原は生涯横浜を見捨てることはありませんでした。貢献度の割に評価の低いのは残念です。
原富太郎(三渓)の評価は今後さらに高まっていくことだろうと思います。
この三渓園には「No.171」で紹介したインドの思想家タゴールが長期滞在したところです。三渓園にタゴールが滞在したキッカケとなった人物が「岡倉天心」です。

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

岡倉天心と原三渓との書簡は少ないようですが、交流は大変多くあったと推察できます。三渓の日本美術コレクションは趣味の領域を超えていたと評されますが、これは岡倉との交流があったからでしょう。
例えば、
岡倉に育てられた日本画壇の巨匠「下村観山」「横山大観」に対し積極的に支援をしたのは原三渓でした。
三渓が高く評価した「飛鳥の春の額田王」で有名な“安田 靫彦”(やすだ ゆきひこ)は「三渓翁の古書画等の蒐集は時代を追ふて、その代表的作品をうかがわれた。」と評しています。「岡倉天心生誕の地」の記念碑は彼の筆によるものです。

三渓伝の決定版、藤本實也著「原三渓翁伝」にも、
天心との交流に関する記述が多くありますが、
その中で天心がもう少し長生きしていたら
三渓と天心で日本画界に多くの“痕跡”を残しただろうと述べられています。

1913年(大正2年)岡倉天心52歳で他界、
この時三渓は42歳でした。
関東大震災後の横浜復興に全精力を傾け復興の兆しが見え始めた矢先、
原は1939年(昭和14年)8月72歳で他界しました。
その後、日本は戦争に突入、大空襲で多くの人命、財産を失い“横浜は再度”復興への道を歩み始めます。

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