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No.376 1月10日(木)中島敦のいた街(一部加筆)

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。(中島敦「山月記」冒頭)

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40年読み続けている文庫本

高校時代、世界史最後の授業で担当の奥津芳郎先生は
授業を早めに終わり、
「今日は一編の小説を君たちに贈り最後の授業としたい」
そう言って朗読された作品がこの「山月記」でした。
※先生は学生時代に先輩の中島敦に会い、交流があったそうです。
作家中島敦の代表作の一つです。一時期(今は確認しておりません)多くの高校現代国語教科書に取り上げられた作品です。
彼が横浜に暮らした作家だったことを知ったのは、それからかなり経ってからの事でした。
彼は、教師として8年間横浜に暮らします。彼の人生の四分の一、社会人の殆どをこの地、横浜で過ごします。

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(中島お気に入りだった喜久屋)

横浜の文学風景に作家「中島敦」は欠かせません。また、中島敦にとっても、横浜は大切な街だったに違いありません。
今日は、横浜文学風景“中島敦のいた街”をすこし紹介することにしましょう。
1909年(明治42年)5月5日中島敦は東京、四谷に生まれます。
この年は日本が開港して50年を迎え横浜では開港祝典が開かれました。 親の関係で、奈良、浜松、京城(朝鮮)で過ごし
1926年(大正15年)3月京城中学校を卒業。上京し、第一高等学校に入学します。
1933年(昭和8年)に東京帝国大学国文科を卒業し
知人の紹介で横浜高等女学校(現在の横浜学園)で国語と英語を教えます。

※横浜高等女学校(現在の横浜学園高校)
1899年(明治32年)実業家・県議だった田沼太右衛門により横浜女学校として創立。現在は横浜市磯子区岡村2-4-1に移転。女優の原節子(中退)や歌手の山崎ハコが学ぶ。
http://www.yokogaku.ed.jp

同時期に、横浜高等女学校で音楽教員として渡辺はま子が教鞭を執っていました。
No.303 10月29日(月)オカピ外交

着任して中島は、中区長者町にあったアパートに住みますが、すぐに山下町168番地の当時最新の山下町同潤会アパートに移り住みます。

山下町同潤会アパート
中島敦の暮らしていた山下町同潤会アパート


1936年(昭和11年)3月には中区本郷町3-247(通称瓦斯山)の一戸建住宅に家族と一緒に暮らします。

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中島は、山手の外国人墓地近辺を散策するのが好きで彼の短歌にも何編か情景が残されています。

この丘に
眠る船乗(マドロス)
夜来れば
海をこほしく
雄叫びせむか

小さい頃から病弱だった彼は、軍靴高まるこの時代に、兵役免除となります。持病の喘息に悩まされ、最後も持病で亡くなります。
1941年(昭和16年)3月
 横浜高等女学校を病気のため休職
6月16日には退職届を出します。大学時代からの友人 釘本 久春の計らいで

同月28日横浜からサイパン丸に乗り、南洋庁の国語教科書編集員としてパラオに赴任します(船で九日間)。
【パラオ】
パラオは第一次世界大戦後、その他の島々とともに日本の統治下に置かれます。
1922年(大正11年)日本はパラオのコロールに「南洋庁」を置き、委任統治領の行政の中心地となります。
戦後はアメリカの信託統治領となり独立運動の結果、
1994年(平成6年)10月1日にパラオの独立を承認し、同年11月2日にパラオと国交を樹立します。
1940年(昭和15年)に「大日本航空株式会社」が横浜根岸に飛行場を開設し、南洋諸島パラオ島への定期航空路を運行していました。横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といった二日の旅程でした。
暦で語る今日の横浜【9月10日】

中島はさすがに飛行機では行かなかった(行けなかった)ようです。
慣れない南洋の地を楽しもうとしている様子が彼の日記や書簡集から読み取れますが、環境は最悪のようでした。現地でも多くの歌を残しています。
「蟹むるる リーフ干潟の上にして つややけきかもよ蒼穹の青は」
着任してまもなくテング熱の他、病気になったことと戦争が始まったこともあり同僚と早々に帰国することになります。
1942年(昭和17年)12月
喘息発作のため東京世田谷の自宅で32歳の生涯を終えます。
人生の僅かな社会人人生の殆どを横浜で過ごした中島が(教師の側)短くも濃厚な作家生活を送り多くの作品をこの地「横浜」で書き上げます。
彼と横浜の関係を記念して
中島敦の文学碑が元町3丁目の元町幼稚園運動場内にあります。

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1975年(昭和50年)12月4日中島敦の命日に文学碑を建てる会が建てたものです。

中島敦が、横浜高等女学校に教師として勤め始めた同時期、同じ東京出身で大学同期の親友だった釘本 久春が、新子安駅北側にある浅野綜合中学校(現在の浅野中学校・高等学校)の国語教師となります。
教師時代も、職場があった横浜で二人は友情を温めます。
※浅野綜合中学校
1920年(大正9年)1月に実業家 浅野総一郎が創設した總合中學校です。
横浜市神奈川区子安台一丁目3番1号
戦後、釘本 久春は、文部省(現在の文部科学省)の文部省国語課長となり戦後の国語改革、国立国語研究所の創設に参画します。
中島作品は、戦後中村光夫らによって再評価され、親友釘本 久春も中島敦作品を戦後の青年に読んで欲しい一編として「山月記」を推すことで、教科書に採用されることになります。
ここでは、敢えて作品に付いては触れません。
今こそ 
この作品から 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心に苦しむ
行き詰まった自己の時代を見つめ直す時ではないでしょうか。
201807加筆

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