現在ジャパンコンテンツの一つ、漫画が世界を席巻していますが、日本最初の“漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」が一人の英国人によって横浜で発刊されました。
“この時代を冷静に風刺した漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」は、英国人チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman、1832年(天保3年)8月31日〜1891年(明治24年)2月8日)によって創刊、不定期ではありましたが1862年(文久2年)から1887年(明治20年)の25年間にわたって発刊されました。
人生の多くを横浜で過ごし、横浜で亡くなった彼の生涯を簡単ですが紹介しておきましょう。
弟の描いたワーグマン |
(ワーグマンの生涯)
ワーグマンの日本に来るまでの生い立ちはほとんど不明です。
ロンドンに生まれ、20歳の時にパリで絵の勉強をしますが、画家ではなく軍人として陸軍大尉まで昇進します。22歳の時に除隊し、「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙の特派員として中国は広東に派遣されます。
当時、日本を訪れた外国人は中国大陸を訪れた後に来日するパターンが多かったようです。特にイギリス・フランス人は、中国侵略に血道をあげていた時代です。
ワーグマンは、広東でアロー号事件、北京侵攻に同行した後、1861年(文久元年)に長崎に来日します。
香港で初代駐日総領事に任命されたサー・ラザフォード・オールコックに随行し、江戸に二ヶ月かけて上京します。
おそらく、オールコックは日本国内を着任前に自分の目で見ておきたかったのでしょう。ワーグマンも多くのスケッチが残されています。
この日本国内を縦断する長旅が終わった時に、ワーグマンの人生を変える大事件に遭遇します。長崎からの旅を終え、仮の英国公使館となった品川の東禅寺に泊まった翌日、水戸浪士による「東禅寺事件」が起ります。
静かな日本の生活を実感してきたワーグマンにとって、
この事件に関する記録が、ワーグマン来日の初仕事になります。
この襲撃事件の時、ワーグマンは床下(縁の下)に隠れ、腹這いになりながら「イギリス民衆の為に、この特筆すべき事件の情景を描写していた」と生き残った書記官が書き記すジャーナリスト魂を発揮します。
開国の混乱期、最も攘夷のテロが多く起った時期にワーグマンは江戸の地を踏む事となったのです。
(ベアトとの出会い)
ほぼ、ワーグナーと同時期の1863年(文久3年)にインド、中国を経て来日した英国人戦場カメラマンがフェリーチェ・ベアトです。
ワーグマンは絵画、ベアトは最新技術の写真で日本文化を克明に記録した“対照的な”二人が出会います。
フェリーチェ・ベアト
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト
二人は横浜で急速に接近し、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、共同経営の下で報道写真と報道絵画のビジネス展開をします。
1863年にワーグマンとベアトは、スイス全権大使アンベールに同行して外国人遊歩区域外の日本を記録に残します。
べアトは、横浜、下関、 鎌倉、金沢村ほか京都や江戸の規制区域内を撮影し、ワーグマンも詳細なスケッチを残します。
No.364 12月29日(土)小国の独立力
写真は銅版画に起こされてワーグマンが特派員だった「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙にも掲載されます。
二人は対照的な人生を歩みます。
ベアトは、中国で取材活動中から「商館」を経営し、日本でも写真家から貿易商・不動産業に転身し「横浜グランドホテル」の共同オーナーを始め賃貸住宅のオーナーにもなるというビジネスマンとして活躍します。
一方のワーグマンは
1862年(文久2年)から始めた「THE JAPAN PUNCH」を不定期ながら発刊し続けながら、日本人女性の小沢カネと結婚し、日本人に西欧絵画の技法を教え続けます。
1865年に「五姓田義松」がワーグマンの許に入門し後に日本を代表する洋画家となります。
翌1866年には近代洋画の開拓者と呼ばれた「高橋由一」が入門します。
高橋由一作品、鮭の絵が有名です |
また1874年には明治浮世絵の三傑の一人「小林清親」が入門しようと尋ねた記録があります。
しかし、明治初期、西欧画を排除する時代に入ります。「THE JAPAN PUNCH」も運営が厳しくなり、洋画の発表の場も失われていく中で、ワーグマンは画家・アーティストとして生きようともがきますが、筆折れ
1887年(明治19年)に当時人気急上昇のジョルジュ・ビゴーへの(バトンタッチの)挨拶を含めた最終号を発刊します。
イギリスに発表の場を求め帰国し、弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日(帰国?)しますが病に倒れ、長い闘病生活の後1891年(明治24年)58歳で亡くなります。
彼は横浜外国人墓地(イギリス16区9)に葬られ、毎年命日の2月8日には「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)がワーグマンの墓前にて開かれ、現在まで彼の人生が偲ばれています。
(余談)
この時期に流行した「ポンチ絵」はワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」からきています。
このコラムを書こうと思ったのは、先日実家を整理していたら、古いダンボール箱の中から、よれよれの紙が出てきたからです。
そっと開いてみると、これがなんと
「THE JAPAN PUNCH」1875年OCT版だったのです。彼の代表作はありませんでしたが、実物の迫力に感動し、このネタに触れてみました。
19世紀後半、写真の時代が到来する中、
ワーグマンとベアト。二人の英国人の対照的な人生を、機会があれば掘り下げてみたいテーマです。