なんとか最終章に入ります。
366話目の「2012年暦で綴る今日の横浜」です。
長い間おつきあいありがとうございました。
今日は特にある年の12月31日の話しでは無く、明治以来横浜港を始め、神戸や長崎の港から旅だった「日系移民」の話を紹介しておきます。
(洋上のハッピーニューイヤー)
年表を眺めていたら、明治以来昭和までの長い期間に
横浜からカナダ、アメリカ、ブラジルなどに向け多くの移民船が出港しています。
中でも12月29日頃から31日までの年末に
多くの移民船が横浜を出港した記述がある事が気になっていました。
異国で生きる事を決意した日本人は、どんな思いで洋上の新年を迎えたのでしょうか?
思いを馳せるとそこには悲しくも逞しい日系移民の姿が重なってきます。
(移民の歴史を知ること)
日本から100万人を越える移民が海を渡りました。
移民に関する資料を「海外移住資料館」で観ることが出来ます。
横浜の新港埠頭に「海外移住資料館」があることをご存知ですか?
まだの方は一度ゆっくり見学される事をおすすめします。
http://www.jomm.jp
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。
その一方で、ここ十数年、かつて日本人が移住した国々から、とくに南米から、日系人とその家族をあわせて約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日しています。こうした経緯から、日本人の海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く一般の方々(とくに若い人たち)に理解を深めてもらうことを目的として、海外移住資料館が開設されることになりました。」
(日本の移民は横浜に始まります)
移民全般については、かなりのボリュームになるので、ここでは日本の移民元年、まさに明治元年にハワイに横浜港から船出した「元年者」と呼ばれた最初のハワイ移民を簡単に紹介しておきます。
日系移民マップ |
幕末、ペリーの開港要求が日本開国政策への転換点となります。
1866年(慶應2年)に海外渡航禁止令が解かれます。
諸外国とは、外交上の開国を安政五カ国条約によって約束しますが日本人が外国へ行く事はこの海外渡航禁止令が活きていました。
このときに、日本人の労働力に着眼したオランダ系アメリカ人がいました。ユージン・ヴァン・リード(Eugene Miller Van Reed, 1835年5月17日〜1873年2月2日)です。ハワイにいたリードは、ホノルルで開国した日本に通訳官として向かう浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)に出会います。ここで、ハワイ王国(当時ハワイは事実上米国の支配下にありましたが、一応独立国)外相ワイリーから、リードの日本情報に対し、日本人のハワイ向け労働者を集める事は可能かどうか打診されます。
リードは早速 ジョセフ・ヒコに随行し、1859年(安政6年)7月に神奈川に設立された米国総領事館の書記生として入国します。
日本の開国情報をリサーチしたあと、一旦ハワイに戻り外相ワイリーから外交官の資格を得て再来日します。
1865年4月に横浜(神奈川)にあった米国領事館の一角をハワイ王国領事館として、リードは総領事となりハワイ王国との国交締結交渉を行いますが失敗します。国交が成立しなければ領事の意味は無くなりますので、彼はそのまま横浜に滞在し貿易商を開業、東北地方諸藩との取引を行います。その間も、幕府と外交交渉を継続し、1868年(慶應4年)日本人のハワイ移住に関する許可を獲得します。
1868年といえば明治維新、徳川幕府が崩壊した年です。幕府も瓦解寸前の無責任な認可?になるかもしれません。リードは、政権交代後の明治政府横浜裁判所に4月19日、募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行います。
これに対して神奈川裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認します。(これは正しい処置)
更に王政復古後の江戸幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とします。
これに対して彼は無効処分の取り消しか賠償金4,000ドルを要求し、時間稼ぎをします。リードはすでに日本での移民リクルーティングを済ませていて、6日後に英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行します。
この日本最初の移民、後に国の政権交代の隙間で翻弄された彼らを「元年者」と呼びますが、
横浜を舞台に これを契機(既成事実)に日系アメリカ移民が始まります。
1871年8月19日(明治4年7月4日)に日本とハワイ王国の国交が正式に結ばれますが、どさくさに紛れてハワイに日本人を送ったリードの外交資格が問題点としてとり挙げられ外交資格を剥奪されます。
その後、アメリカ公使チャールズ・デロングの仲介により、日本政府はリードのハワイ領事視覚を承認した経緯があります。
リードに関しては、高橋是清の米国留学を斡旋した際に学費を着服してしまうとか、岸田吟香の新聞『もしほ草』創刊を支援したりとか面白い人物である事は間違いありません。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ
最後に、何故ハワイ王国は日本人労働者を必要としたのでしょうか?
最大の理由は、
30万人いたハワイ人口が、カリフォルニアに起ったゴールドラッシュで流出しハワイの砂糖産業が危機的労働力不足に陥っていたからです。
※アメリカ本国では、黒人奴隷に代る労働力を中国に求めました。(苦力の歴史)
ハワイの元年者達の行く末は?
元年者達は、夢多きホノルルまでの航海は順調でした。
しかし、農場に入植後、東北出身が多かった移民たちは不慣れな気候の下での過酷な労働と、当時ハワイに起ったインフレ物価高による生活の困窮に苦しみます。
1868年12月に移民団の元締であった牧野富三郎らが日本政府に救出を求める嘆願書を寄せる事態に至ります。
明治政府は民部省監督正薩摩出身の“上野景範”を使節としてハワイに派遣します。上野景範は、幕末薩摩藩で奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人建築技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務めた経験もあり製糖工場には詳しかったようです。
特命全権公使としてハワイに赴いた上野景範ら一行は、サンフランシスコ経由で1869年12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉を行います。
1870年1月11日(明治2年12月10日)帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したときにはハワイ政府の費用で日本に送り届けることなどを合意し、募集を行ったハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免を確約させます。
1870年3月7日移民40人とハワイで生まれた子ども1人計41人が横浜に到着し、遅れて3月26日上野景範自身も別便で横浜に帰着します。
このような事態は その後も多くの日系移民に起ります。
日系人排斥、日本語教育禁止等の悲しい迫害を受けながらも
日系移民は時代を生き抜きます。
決してバラ色ではない移民という選択。
それでも多くの日本人が この『国』を離れようとしたのは何故でしょうか?
そして、敗戦後、そして311では
いち早く支援に立ち上がった日系人が多くいたことも 私たちに パトリとネイションの在り方を考えさせられる歴史の事実です。