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No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

クリスマスイブで三連休です。
今日は赤い京急車両ネタで行こうと考えていましたが、咸臨丸に変更しました。
太平洋を渡った咸臨丸は有名ですが、
1860年1月16日(月)(安政6年12月24日)の今日、たまたま横浜沖に停泊していたためにアメリカ行きに決定し、激動の生涯が始まります。

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咸臨丸ネタは下記で主に“太平洋横断後”について紹介しました。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

再度
咸臨丸の意外な真実を箇条書きで整理加筆しておきます。
1咸臨丸は遣米使節団を乗せた船ではありません。
→正式の遣米使節団の乗った船は「ポーハタン号」です。
 「ポーハタン号」は、ペリーと共に1854年再来した黒船の一隻です。
2咸臨丸の最後は北海道で、函館沖に沈んでいます。
→明治4年、(旧)幕臣移民約400名を乗せ小樽へ向け航行中暴風雨により座礁・遭難し沈没しますが奇跡的に犠牲者はありませんでした。

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3咸臨丸は徳川幕府が発注しオランダで製造されましたが、欠陥品でした。
(資材に中国船の中古を使用、強度に問題がありました)
→日本で補修の時に発見されました。

4(3)にも関わらず咸臨丸は奇跡の約5,000日現役でがんばりました。
5静岡清水港で新政府軍に攻撃され咸臨丸乗組員全員が死亡します。
→この犠牲者を弔ったのが山本長五郎(清水次郎長)
6咸臨丸は最初太平洋横断には使用されない予定でした。
7行きはアメリカ人チームが操縦し、
 帰りは蒸気方の見習士官を務めた
 小杉雅之進が往路の経験を活かし操縦のリーダーシップを発揮し無事帰還します。

今日は6番目の「咸臨丸は最初太平洋横断には使用されない予定」に関してご紹介しましょう。
咸臨丸が有名になったのは、日本(幕府)の船として初めて太平洋を往復したからです。ペリーの黒船外交で決定した日米修好通商条約の批准書を交換するために遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断することになります。
幕府の決定した渡米メンバーが多かったため、ポーハタン号一隻では定員オーバーだったことと、この際“自力”で外洋を航行する経験も必要ということで別の船でアメリカ行きを幕府に提案しますが「却下」されます。
遣米チームは諦めず再度提案しますが、返事が出ません。
この時期、徳川幕府は大混乱期にあたり意思決定が朝令暮改、クルクル変わる状況でしたがギリギリになって許可が下ります。
「ポーハタン号」の別船チームは、木村(摂津守)芥舟がリーダーとなり軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者を集め、通訳にはアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選びます。
当時、外洋航行が可能とされていた船は5隻ありましたが
最新の朝陽丸を予定していました。いざ、渡航が決定すると渡航人数が増加します。そこで、朝陽丸より一回り大きい日本の最初の蒸気船「観光丸」に決定します。

※観光の語源は、中国の『易経』の「観国之光(国の光を観る)」から。

この「観光丸」は別船チームの勝海舟が長崎で船長をしていたこともあり、勝は自力で航行する意欲を見せますが、リーダーの木村摂津守は不安を感じていました。
たまたま、横浜に滞在していた米国の測量船フェニモア・クーパー号艦長ブルック海軍大尉が自船難破のため別の船で帰国を希望しているので同乗させてもらえないかという打診が米国領事からもたらされます。
経験者が同乗することを歓迎した木村はブルック海軍大尉以下クーパー号クルー乗船を幕府からも許可を得ます。
面白くないのが勝海舟以下自力航行を目指したチームで、猛烈な反対をします。勝海舟、血気盛んな37歳でした。

日本初の太平洋横断に際し、アメリカ側も入念な準備を求めます。
優秀な測量技術官だったブルック海軍大尉は、渡航予定の「観光丸」を横浜港沖で臨検し、この船では太平洋横断は無理だと判断します。
幕府側は、またまた混乱します。性能的には当初の朝陽丸が最適だということになりますが、不運というか不手際というか「朝陽丸」は別件で長崎に出発したばかりで“引き戻し”もできない状況となります。
勝チームはこれにも不満をむき出しにします。
時は安政6年12月20日、遣米使節団を運ぶための米国船「ポーハタン号」が横浜に入港します。
幕府は、至急「別船」の決定を求められます。
この日、たまたま長崎から一隻の練習船が横浜に入港します。
「咸臨丸」です。
幕府側は急遽米国側に「咸臨丸」ではどうだろうか?と打診し了解を得ます。長崎から戻ったばかりの咸臨丸への変更が確定し、太平洋横断に使用されることになります。
1860年1月16日(安政6年12月24日)のことでした。
「咸臨丸」は翌日12月25日横浜から品川へ回航され出発準備に入ります。

当時の外洋航行で数日日程が遅れることはママあることです。たまたま、「ポーハタン号」横浜入港の日に「咸臨丸」も横浜に入港するという歴史のいたずらには驚きを隠せません。
なぜなら、当初計画していた「観光丸」はその後、故障を起こし大補修を余儀なくされます。もしこのまま「観光丸」でアメリカに向かっていたら、太平洋横断は勿論優秀な明治の人材を失っていたかもしれません。

咸臨丸は旧暦1月19日(2月10日)に浦賀を出港し、ポーハタン号は旧暦1月22日(2月13日)に横浜港を出発し二隻とも無事大役を達成します。

(余談1)
横須賀に勝海舟がアメリカに渡る際、
山ごもりした神社があります。
 →写真捜索中

咸臨丸出航の碑
咸臨丸出航の碑
浦賀愛宕山にある碑

(余談2)
ブルック海軍大尉以下 米国人クルーの乗船を嫌っていた勝海舟は、総責任者の木村に敵意をむき出しにしますが、途中嵐に遭遇し木村の予想通り日本人乗員は殆ど使いものになりませんでした。
豪語した勝も船酔いで最後まで船室に籠ってしまいます。
行きの咸臨丸はブルック以下米国人乗組員の操縦で無事サンフランシスコに到着します。(この記録は近年までブルックの遺言で死後50年非公開となっていました)
勝海舟ファンには残念ですが、
この時の判断と危機管理能力は、
木村芥舟が正しかったといえるでしょう。
この時、もう一つの軋轢が生まれています。
木村の従者として乗船した福沢諭吉は、
後年 この咸臨丸での行動を含め勝批判をします。

「瘠我慢の説」
(勝海舟と榎本武揚批判。共に咸臨丸に関係がある人物)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46826.html

関連ブログ
No.34 2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2」への2件のフィードバック

  1. 初めまして、寸心と申します。
    咸臨丸を調べていて、ここにたどり着き、楽しく拝見いたしました。
    ところで、「7行きはアメリカ人チームが操縦し、
     帰りは蒸気方の見習士官を務めた
     小杉雅之進がリーダーとなり操縦し帰還します。」
    の中の、「帰りは小杉雅之進がリーダとなり」というのは初めて拝見しました。
    元の史料をご存知でしたら、ご教示いただければ幸いです。

    1. 寸心さんご指摘ありがとうございました。小杉雅之進は<咸臨丸>のリーダーではありません。誤解のある表現でしたので修正します。参考としたのは小杉雅之進の航海日誌です。

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