今年も残り10日となりました。
今日はこの場を借りて改めて大平正芳を紹介します。1937年(昭和12年)に横浜税務署長の辞令を受け、横浜市に赴任しました。
「No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます」から転用加筆しました。
大平正芳、私が尊敬する数少ない政治家の一人です。
地味ですが、することはしてきた“良質な保守本流を代表する最後の総理”(※1)と評されました。
※1「歴代総理大臣の通信簿」八幡和郎 PHP
保守とはタカ派のことではありません。保守は現実主義的改革派であって、理想主義的改革派(革新)とは一線を引きます。現状を維持しつつも将来への変革を積極的に受け入れていくことが保守本流です。ここでは保守論を論じる場ではないので保守とはに関しては別の機会に譲ることにします。
(共にハマに暮らす)
大平正芳、福田赳夫
二人の首相経験者は共に、横浜税務署長を歴任するという共通点がありました。
※当時「横浜税務署」は野毛、現在の「にぎわい座」にありました。
当時、歴代横浜税務署長は、辞令が出るとまず税務署にほど近い紅葉坂の官舎に仮住まいし、その後一軒家を借りるのが“お決まり”だったようです。
上級官僚は各地の税務署長を1年程度勤め全国を数カ所歴任し本省に戻りますが、横浜税務署長だった福田赳夫は(本省の疑獄事件で)幸運にも1934年(昭和9年)4月〜7月の短期間で本庁に戻ります。
福田赳夫の短い官舎時代の印象は「横浜の野毛山のてっぺん、とても良いところに立派な横浜税務署長の官舎があった。行って泊まったが、夜になると南京虫が出てくる。」ということで三泊だけして早々に磯子の間坂(まさか)に引越ます。
一方 5歳年下の大平正芳は、福田署長から3年後横浜税務署長に赴任し同じく「紅葉山の官舎」に引っ越してきます。
彼の場合は磯子区字浜1,666の借家に転居するまで少し時間がありました。夫婦で野毛界隈を散歩したひと時があったのではないでしょうか。
磯子時代の話しが残っています。
「長男正樹は、昭和十三年二月六日、横浜の磯子で生れた。
当時私は横浜税務署長で、横浜市磯子区の芦名橋で小さい借家住いをしておった。それはすぐ隣の杉山さんの持家で、磯子の浜から一町ほど離れたところにあり、横浜から金沢に通ずる街道を右にちょっとはいった、どこか磯の香のする閑静な住居であった。私と妻は、生れて間もない長男を
抱いて、磯子の浜辺を偕楽園の方向によく散歩したものであった。
当時の横浜は、関東大震災の傷跡が未だに残っており経済的には相当疲弊しており、従って担税力も乏しかった。外国貿易の主導権は当時すでに日本橋や丸之内に移り、横浜は主体性を失った中継貿易港に転落しつつあった。当時横浜には半井知事、青木市長、高橋税関長がおられた。この三人の先輩は定期的に私を昼食に招いてくれたりして、何くれとなく指導して下さった。また市井の人々には、いわゆる「浜っ子」という特有の気質があって、コスモポリタン的な東京人とはちがって、何となく親しみやすかった。私もだんだん横浜に惹かれるようになり、その後東京の大蔵本省に勤務するようになってからも、横浜の本牧に自宅を構えて、三年ほど厄介になったものである。」
大平はその後、本牧に住まいを持ち本省に通った時代がありますが、さすがに本牧からの通勤は大変だったとみえ、東京に居を移します。
ここに登場する大平正芳の長男 正樹氏はその後26歳の若さで難病ベーチェット病で亡くなります。これは家族にとって大いなる悲しみとなりました。
磯子区葦名橋付近 大平正芳が税務署長時代に暮らした町 |
(終生のライバル)
共に紅葉坂官舎暮らしの二人は総理大臣の席をめぐって戦後史に残る壮絶な権力闘争劇のライバルとなります。
有名な三角大福と称された政治闘争の末、共に首相となります。
田中 角栄→三木 武夫→福田 赳夫→大平 正芳
大平は福田赳夫の再出馬を抑えての総裁(首相)就任でした。
この時の(遺恨)なのか、第二次大平内閣成立時には大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平正芳と福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田赳夫の一騎打ちとなります。
キャスティングボードを握ったのが「新自由クラブ」で、国会首班指名で138票対121票という僅差で大平が勝ちます。
この逆転ともいえる大平政権の誕生に自民党は分裂寸前まで敵対(怨念)関係になり、1980年(昭和55年)5月16日に社会党が提出した内閣不信任決議案に対し与党(福田派)の造反で可決し大平首相は衆議院を解散します。
この時の社会党委員長が、元横浜市長で磯子に生まれ育った飛鳥田一雄でした。
2月27日 政治家が辞めるとき
総選挙が公示された5月30日、
大平正芳は第一声を新宿街頭演説を終え、次の演説場所“横浜”に向かいます。
一通り演説を行いますが、すでに体調不良を訴えていた大平は横浜での街頭演説終了後、急遽 虎の門病院に緊急入院することになります。
一時期、回復しますが6月12日午前5時過ぎに容態が急変し死去します。皮肉にも
この時同時に実施された第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙で自由民主党は歴史的大勝利を手に入れることになります。
(彼が残した言葉)
「戦後の総決算」
(中曽根発言のように言われていますが、1971年9月に自民党研修会で大平が詳細に総決算論を講演しています)
「善政をするより悪政をしない」
「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派な行政と言える。(中略)税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何(いず)れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である」(「素顔の代議士」より)
※横浜税務署長時代の昭和13年新年拝賀式での挨拶。
「その役所に所属し、そこに生涯の浮沈と運命を託しているのは、その役所にいる役人衆であって、大臣ではない。主人公たる大臣は栄光をになって登場してくるが、やがてその役所を去って行く存在である。大臣は主人公たる虚名をもっているが、事実はその役所の仮客にすぎない」
「ぼくは日本人を信じます。また、そう信じる気持が唯一の支えです」
(日本にとっての80年代)
私は、ライフワークに近い「関心」事項として「戦後史の分岐点としての80年代」があります。
このテーマに行き着いたキッカケとなったのが
大平正芳による有識者による長期政策に関する政策研究会の設置です。
1979年に設置された9の研究会は、大平の急死によって依頼者を失いますが、この大平レポートは現在抱えている日本の様々な問題を分析し執念とも思える見事な報告書を主亡き後にまとめあげます。
第2次大平内閣の内閣官房長官、臨時代理となった伊東 正義にこの報告書を提出します。
この研究会に参加した実務官僚は200人を超え、官民あげて21世紀への日本のありかたを真剣に議論した“最後”のプロジェクトではないでしょうか。
この後、1980年代に日本は大きく変容します。
失われた( )年は、今も続いています。
今こそ
多くの方にこの報告書を読まれる事をお勧めします。
(大平研究会)
大平正芳の政策研究会
全9巻の報告書『大平総理の政策研究会報告書』を1980年に提出します。
1 文化の時代研究グループ(議長 山本七平山本書店主)
2 田園都市構想研究グループ(議長 梅棹忠夫国立民族学博物館長)
3 家庭基盤充実研究グループ(議長 伊藤善市東京女子大学教授)
4 環太平洋連帯研究グループ(議長 大来佐武郎(社)日本経済研究センター会長)
5 総合安全保障研究グループ(議長 猪木正道(財)平和・安全保障研究所理事長)
6 対外経済政策研究グループ(議長 内田忠夫東京大学教授)
7 文化の時代の経済運営研究グループ(議長 館龍一郎東京大学教授)
8 科学技術の史的展開研究グループ(議長 佐々學 国立公害研究所長)
9 多元化社会の生活関心研究グループ(議長 林知己夫統計数理研究所長)
(家庭基盤充実研究)
中でも家庭基盤充実研究は 特筆に値します。30年前にここまで正確に現在の課題を抽出し、提言できたメンバーに敬意を表したい。
「この報告書は、ぜひ全9 巻を通してお読みいただきたい。それは、30 年後、50 年後の地球社会が、日本が、あなたの住む地域社会が、さらに、あなた自身の家庭や生活が、どうなるのか、どうなるのが望ましいのか、そのために、今日から、この10 年間、20年間に、あなたを含めて、何をしなければならないのか、そういうことを、あなたに語りかけてくれるであろう。
かつて大平総理が、尊敬し信頼してこの大作業を委ね、ともに語り合うことを喜びとしていたこの人々と、あなたも、この報告書を通じて、ゆっくりと語り合っていただきたい。
内閣官房内閣審議室分室・内閣総理大臣補佐官室」
政府関係の報告書とは思えない饒舌感、高揚感のあるこのメッセージに相応しい問題提起がここにあります。
(現在閲覧は図書館のみです→これこそデジタル化してほしい資料の一つです)
(余談)
国会で一時期大平派に属していた風変わりな議員がいました。
1971年の第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。直後に自由民主党(自民党)に入党した松岡 克由です。
別の名を「立川 談志」
彼の器には政治家という職は小さすぎたようです。