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No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます

今日は横浜と因縁のある「大平正芳」元総理の話しです。
歴代43人目の内閣総理大臣「大平正芳」は、
1937年(昭和12年)7月1日(木)横浜税務署長の辞令を受け、
7月7日(水)横浜市に赴任しました。

昭和24年当時の野毛周辺図。老松国民学校跡地に五代目市役所があります。
横浜税務署跡地には「にぎわい座」が建っています。

大平正芳、私が尊敬する数少ない政治家の一人です。
その評価に関しては別の機会にじっくり紹介します。
地味ですが、することはしてきた“良質な保守本流を代表する最後の総理”(※1)と評されました。

(ハマに暮らした終生のライバル)
詳細に資料をあたっていませんが、
横浜で暮らしたことのある総理大臣経験者は恐らく
大平正芳と福田赳夫(※2)だけではないでしょうか。
(例外として幕末に高橋是清が横浜のヘボン塾に学んでいた時下宿?)
二人は共に、横浜税務署長を歴任しています。
当時、歴代横浜税務署長は、辞令が出るとまず紅葉坂の官舎に仮住まいし、その後一軒家を借りるのが“お決まり”だったようです。

現在確認できる紅葉坂財務省官舎(売却)はここでした

上級官僚は各地の税務署長を1年程度勤め全国を数カ所歴任し本省に戻りますが、
福田赳夫は幸運にも?(本省の疑獄事件で)
1934年(昭和9年)4月〜7月の短期間、横浜税務署長を勤め本省に戻ります。
福田赳夫の短い官舎時代の印象は
「横浜の野毛山のてっぺん、とても良いところに立派な横浜税務署長の官舎があった。行って泊まったが、夜になると南京虫が出てくる。」
ということで三泊だけして早々に磯子の間坂(まさか)に引越ます。
一方の5歳年下の大平正芳は、
3年後横浜税務署長に赴任し同じく「紅葉山の官舎」に引っ越してきますが、
その後磯子区字浜1666に転居するまでには少し時間がありました。この間、掃部山周辺を楽しんだのではないでしょうか。
この時、ちょうど上司にあたったのが関東税務監察局直税部長だった池田勇人でした。

※1「歴代総理大臣の通信簿」八幡和郎 PHP
※2福田 赳夫(1905年(明治38年)1月14日 – 1995年(平成7年)7月5日)
この二人は戦後壮絶な権力闘争劇のライバルとして戦います。
有名な三角大福と言われた政治闘争の末、最後に首相となります。
紅葉坂官舎暮らし先輩の福田赳夫を破っての首相就任でした。

これが原因で、社会党が提出した内閣不信任決議案に対し与党福田派の造反で可決し大平首相は衆議院を解散します。
この時の社会党委員長が、皮肉にも元横浜市長で磯子に住む飛鳥田一雄でした。

2月27日 政治家が辞めるとき

そして、第36回衆院選と第12回参院選というダブル選挙が公示された
1980年(昭和55年)5月30日第一声を挙げた新宿での街頭演説を終えた大平は、
次の演説場所
横浜に向かいます。
横浜で一通り演説を行いますが、
この時すでに体調不良を訴えていた大平は終了後虎の門病院に緊急入院します。
横浜が最後の演説場所となりました。
一時期、回復しましたが
6月12日午前5時過ぎに容態が急変し死去します。
皮肉にも時の総理の死は第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙で自由民主党の歴史的大勝利をもたらします。

(かくして歴史は繰り返す)
大平正芳は
有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置しました。
内政についての基本は田園都市構想、
外交では環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱し発表します。

No.318 11月13日(火)横浜戒厳令

この大平レポートは、
現在抱えている「日本の様々な問題」(少子高齢化、地方分権他)を既に調査・分析し来るべき未来の重要施策を提言しました。
この時、このプロジェクトを官僚側で事務方として取りまとめに奔走していた建設省の官僚が
高秀秀信(元横浜市長)です。彼は市長時代にこのレポートを何回も読み返しながら市政設計の参考にしていました。

(大平正芳が残した言葉)
「戦後の総決算」
(中曽根発言のように言われていますが、
 1971年9月に自民党研修会で大平が詳細に総決算論を講演しています)
「善政をするより悪政をしない」
「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派な行政と言える。(中略)税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何(いず)れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である」(「素顔の代議士」より)
※横浜税務署長時代の昭和13年新年拝賀式での挨拶。

「その役所に所属し、そこに生涯の浮沈と運命を託しているのは、その役所にいる役人衆であって、大臣ではない。主人公たる大臣は栄光をになって登場してくるが、やがてその役所を去って行く存在である。大臣は主人公たる虚名をもっているが、事実はその役所の仮客にすぎない」

「ぼくは日本人を信じます。また、そう信じる気持が唯一の支えです」

トヨペット クラウン デラックスCM – 大平正芳 編 – 1965
※中々ほのぼのとした良い映像でした

(新しい大平像を知る参考図書)
辻井喬『茜色の空』文芸春秋刊で大平正芳のキリスト教観描いた長編小説。
森田一『心の一燈 回想の大平正芳』第一法規株式会社

2012年に付け足し)
野田さん(現民進党)、あなたは大平正芳に自分をかぶせているようですが、止めた方が良いのでは。
キリスト教徒でありつつ国家の大義を守った保守本流の彼とはあまりに相違点が多すぎませんか。
単に消費税導入で失敗した首相というなら、大平を竹下が継承しましたが

あなたは?
外交手腕に関しては?
(2015年に付け足し)
確かに吉田茂の流れを汲む池田・大平政治<宏池会>は鳩山・岸らによる保守改憲派の最も対立軸の向こう側に立ち彼らとは一線を画してきました。
岸信介は大平正芳を「大したもんじゃない」と切り捨てています。しかし大平は思い上がること無く、21世紀に向け多くの<知>を集約しようとした初めての総理大臣ではないでしょうか。
多くの<知>に対し<政治>を優先しようとする現在、彼の思い描いた政治像を改めて読み返して欲しいと思います。
少なくとも自民党の一部の皆さんには。
(2017年に付け足し)
「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名をとった大平正芳について
婿の森田一が語っています。
<池田さんと一番親しい関係だから、大平はいろいろ言えた。「池田さんは富士山みたいなもので、そばに近づいたら欠点がごつごつある」とか。池田さんもそれに全然怒らないという関係だった>
<人間的には神様に近いという感じだ。生涯、人を怒鳴りつけたりしたことはなかった。(盟友となる元首相の)田中角栄さんは「大平君は政治家というよりは宗教家だねえ、哲学者だねえ」と言っていた>
<大平は自分の発言が日本、全世界にどういう影響があるかを考えた上で初めて一言を発していた>

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