No.327 11月22日(木)アジテーションの根源

たとえそれが戯作だったとしても、
そこに時代の空気が漂う時、人々の心をつかみ取ります。
元禄15年12月14日が赤穂浪士最大のクライマックスだったように、文久2年11月22日が、遊郭「岩亀楼」の“喜遊”にとって最大のクライマックスでした。今日は横浜に伝わる一人の遊女について簡単に紹介します。
不足分は面白い資料がネット上に多くありますので是非楽しんでください。

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横浜の歴史を語る時、この話しに触れない訳にはいきません。
居留地の一角にあった港崎遊郭(みよざきゆうかく)「岩亀楼(がんきろう)」の“ある遊女”が外国人客を嫌って自害するという実際に起った事件です。

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この事件は、有吉佐和子が“時代の波に呑まれていく人々を描いた傑作”として1970年(昭和45年)7月「婦人公論」に短編として発表し話題になります。

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すぐに有吉が名女優「杉村春子」のために「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を戯曲化し1972年(昭和47年)の文学座公演で初演されて以来、彼女による“お園”が当たり役となり繰り返し上演されてきました。その後
1988年(昭和63年)からは坂東玉三郎に受け継がれます。
つい最近では、赤坂ACTシアターで上演(再演)されました。
ふるあめりかに袖はぬらさじ trailer
http://www.youtube.com/watch?v=nulnVWVzhuE
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』中央公論社・中公文庫

(ざくっとあらすじ)
時は幕末開港時、横浜で一二を競った遊郭「岩亀楼」の「花魁・亀遊」が病気で伏せていた時、恋仲の通訳“藤吉”が亀遊を励まします。
蘭方薬でようやく回復しますが、薬屋の主人“大種屋”がアメリカ人イルウスを伴って岩亀楼にやって来ます。薬屋の主人には人気花魁「亀遊」が指名されますが、一方のアメリカ人イルウスはご指名では納得せず「花魁・亀遊」をよこせと金で解決しようとします。
当時、遊女は“日本口”と“唐人口”に分けられていたそうです。
羅紗面と呼ばれた“唐人口”の外国人相手の遊女は“なり手”が少なかったのでしょう。この時、外国人客が多い割に遊女が少なく“日本口”の「花魁・亀遊」が指名されます。(外国人を嫌っていた)亀遊はこれを拒否し自害した事が後に大騒動になります。
この事件を「花魁・亀遊」の古くからの知り合い「芸者のお園」(主人公)が語るという筋回しです。

(有吉作品のすごさ)
一般的に、岩亀楼の亀遊は、外国人(アメリカ人)を嫌い幕府の強制命令にも屈せず有名な(辞世の句)
「露をだに厭う大和の女郎花、
  ふるあめりかに袖はぬらさじ」
<(たとえ身を遊女に落としても)日本の遊女はアメリカ人にはなびきません>を残したとして有名になるのですが、有吉は史実を冷静に見て
実は違った攘夷派メディアの「でっちあげ」だ!とします。
私が見守った亀遊という一人の女の死はもっと惨めで寂しいものなのだと<時代の空気に乗る風潮>を批判しているようにも感じられます。

※この小説でも幕末明治期の女性の生き様が見事に描かれています。

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山崎洋子さんの幕末明治の女性を描いた2作品

(かすかな資料から)
この事件をかいま見ることができる資料は幾つかあるようですが、私が参考にしたのが明治時代の文学者「三田村鳶魚」が残した「異人嫌いの喜遊」に引用されている『温古見聞彙纂』の部分です。
「幕末に横浜の岩亀楼の遊女の喜遊が、アメリカ人に買われるのが厭だといって、自殺をしました。その遺書というものが大変にひろがって大きな評判を持え(ママ)出しました。併しこれは撰夷運動の今日で中せば宣伝といいますか、吾々どもが若い時分に、自由党の尻について騒ぎ廻った時分でも、おぼえのある事ですが、何ぞ事があると、その事柄を直ちに利用して、その時の政治問題にくっつけて、景気を煽って自分達の運動の便利にする、というようなことは、後々までもあったのです。」(PD図書室より)
http://books.salterrae.net/all/author_39.html

当時居留地外国人は外交特権でかなり横暴であったようで権力を嵩に<神奈川>に対し圧力をかけました。その象徴としてこの事件が取りざたされることになった訳です。
別の資料では、
瓦版による喜遊の客はアメリカ人商人アボットという名でしたが、幕府と関係あるフランス商人アポネではなかったかという研究もあります。
この事件前後をある資料で時系列に追ってみます。
文久2年元旦(1862年1月30日)
 喜遊(本名 箕部喜佐子)港崎町遊郭「岩亀楼」の“日本口”遊女として入ります。
この年、人気花魁となり、居留地外国人アボットに口説かれますが喜遊は拒否します。そこでアボットは神奈川奉行に“日本口”と“唐人口”を分けるのは「不平等」だと圧力を掛けます。
文久2年11月22日(1863年1月11日)
奉行所より、アボットを受け入れよと岩亀楼へ通達があります。
文久2年11月23日(1863年1月12日)
岩亀楼店主の佐吉に説得されますが遺書を書き留め喜遊自害します。
この時に残したといわれているのが
有名な『ふるあめりかに袖はぬらさじ』です。
喜遊の亡骸は吉田新田の栄玉山常清寺(現在は久保山)で火葬・埋葬されます。

目下の沖縄米兵事件、戦前の鬼畜米英、オスプレイ問題 他
日本の対米関係が緊張をはらむたびに、ある種の反米、嫌米感情を表す言説として「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に似た反米感情が他人事のように世間に流布していくことは危険です。そこに暮らす人間の苦しみを理解した政治の覚悟がないと国家は断裂した道を突き進むしかありません。

(この事件が残る場所)
■岩亀稲荷

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横浜市西区戸部町の岩亀横丁に「岩亀稲荷」というお稲荷様があります。
この「岩亀」という名前の由来は、開港当時の遊郭「岩亀楼」からとったものです。
当時この「岩亀楼」の遊女らが静養するする寮がこの横丁にあったことからこのあたりを 「岩亀」と呼び、寮内にあったお稲荷様を「岩亀稲荷」と呼びました。現在、岩亀楼の寮はありませんが、このお稲荷様だけは個人によって大切に維持されています。
毎年5月25日には盛大に例祭が行われるそうです。(未体験)
※注意 
このお稲荷さんの入り口は大変狭く両脇は住宅ですので、中には静かに入りましょう。 
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の逸話についての説明看板があります。何時もお供え物、線香が絶えません。

(その他)
当時の岩亀楼灯籠が「横浜公園」の一角にありますが、この事件とは直接関係がありません。関心のある方は探して見てください。

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