1911年(明治44年)11月7日の今日、
曹洞宗の大本山總持寺が能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)から鶴見に移り移転式が行われました。(鶴見区史)鶴見總持寺といえば、石原裕次郎の墓があることで有名ですが、…
今日は總持寺を紹介しましょう。
(曹洞宗大本山)
曹洞宗は鎌倉時代に宋に渡り1226年に帰国した道元に始まった禅宗の一つです。(道元は禅宗の呼称も拒否したそうです)
曹洞宗には二つの大本山があります。
福井県にある道元禅師開祖の永平寺と、横浜市にある瑩山紹瑾が開いた總持寺です。両寺は永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会をそれぞれ組織し輪番制で「曹洞宗宗務庁」のトップを選び活動を行っています。
http://www.sotozen-net.or.jp/sotosect/honzan.htm
(總持寺の歴史)
總持寺は道元から四代目の瑩山紹瑾が1321年(元亨元年)石川県輪島市門前町門前にある寺(現在は總持寺祖院)を禅林として改め、總持寺と命名し開山したことに始まります。1615年(元和元年)には徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山と呼ばれるようになります。
以来能登の曹洞宗大本山として法燈を守り続けますが、1898年(明治31年)4月13日の夜、大祖堂より出火し瑩山を祀る伝燈院、経蔵といくつかの小施設を除いた全てが焼失します。
再建にあたり、これを機に宮城(東京)近くに移転すべきだという意見とこの地で再建すべきだという意見が分かれます。
1905年(明治38年)に再建されますが、大本山に相応しい場所への移転の声もさらに高まります。
能登の地元では移転反対の運動も起りましたが、總持寺第4世石川素堂(牧牛素堂 大圓玄致禅師)の決断により候補地を探し、神奈川県横浜市鶴見村の成願寺境内に移転を決定します。
1907年(明治40年)3月9日に石川県から鶴見に移転の認可が下り移転が始まり
1911年(明治44年)に遷祖式が行われます。
以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになります。
当時、總持寺には放光堂しか無く、仏殿が1915年(大正4年)に建立、その後戦前戦後を通して造営が行われ現在に至っています。
http://sojiji.jp
No.149 5月28日 「鈍翁」の偉業を偲ぶ
(墓マイラー)
有名人のお墓巡りまでブームになっているとか。
「墓マイラー」なんて言うらしいが、
まあマナーを守ればそこそこ楽しい趣味になりそうです。
總持寺といえば石原裕次郎墓参であまりに有名ですが、境内のシツラエが見事です。
伽藍のスケールもなかなかです。ぜひ見学をお勧めします。
■石原裕次郎
俳優・歌手ですね。
■黛敏郎
作曲家
■浅野総一郎
京浜工業地帯の父・「明治期のセメント王」です。駅名、学校名にもその名が残っています。
■芦田均
第47代 内閣総理大臣 第76・77代 外務大臣
※首班指名選挙で吉田茂と熾烈な闘争劇があった
■伊東忠太
山形県生まれの建築家、研究者。築地本願寺の設計で有名。
(おみやげ売場)
見学の後は お土産売場がおすすめです。
しぐれ煮が良い!!
らくがんは抹茶味
横浜かりんとう
http://www.hamaraku.com
(曹洞宗の原点を読む)
「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)
私のおすすめは
※正法眼蔵とは全九十五巻からなり、佛法の真理・修行のあり方・宗門の規則・の他、只管打坐(ひたすら座禅)・本証妙修(本来覚っているものの座禅)・修証一如(座禅そのものが覚り)・行持道環(座禅を通じて佛と一体になる)等仝膨大な著作である。
(總持寺踏切)
JR東日本東海道本線(京浜東北線)鶴見駅と新子安駅の間に設置されていた通称日本一長い踏切?。
あまりに遮断時間が長いため時間を区切った通行規制(通行止め)が行われていましたが、2012年4月1日をもって廃止(完全通行止状態)されました。
これによって総持寺参道(本山前通り)が消えることになります。
日中の本数が少ない時間帯でも5分近く閉まり続けることが多く、開かずの踏切として有名でyoutubeにもアップされているくらいです。
開かずの踏切 vol.1 総持寺踏切
※気の長い方はご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=guaajGWw4Hg
この踏切、JRのみで東海道、横須賀、JR貨物、京浜東北各上下線があり京浜急行とJR鶴見線は高架になっています。