No.149 5月28日  「鈍翁」の偉業を偲ぶ

「第一回益田鈍翁記念茶会」が
1994年(平成6年)の今日5月28日、
横浜市鶴見区の総持寺で開催されました。
この茶会は、実業家であり茶人でもあった益田孝(鈍翁)が昭和10年に総監修した茶室・倚松庵(いしょうあん)の修復、復元を呼びかける有志主催で行われたものです。

神奈川新聞記事

益田孝は明治から昭和にかけて日本経済界に大きな影響を与え、総合商社三井物産の大番頭として活躍しました。
彼は幕末期に横浜のヘボン塾(現在の明治学院大学)で学び、東京麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務しハリスから英語を学ぶという国際派でした。

個人蔵、Wikiより転載

中外物価新報(後の日本経済新聞)を創刊し、三井物産初代社長として日本の貿易総額の2割を占める大商社に育て上げました。

(ヘボン関係)
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一方で益田孝は茶人としても活躍し自らを「鈍翁」と呼び、小田原に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を設けました。
「鈍翁」の号は、彼のお気に入りだった茶器「鈍太郎」に由来します。


「掃雲台」益田鈍翁の記憶

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/kyodo/topics/Do_You_Know_Donoh.html

また、当時多くの日本美術が海外流出するのを食い止めるために畏友、原三渓とともに奔走した人物であったことは意外と(横浜では?)知られていません。

1935年(昭和10年)多くの財界人有志が集まり、茶室建立のために寄進し総持寺の一角に茶室・倚松庵(いしょうあん)を作りました。
この茶室の総監修を益田鈍翁が行い、京都栂尾高山寺「遺香庵(いこうあん)」の茶室を設計したことで知られている茶人高橋義雄(箒庵)によって設計されました。
高橋箒庵は、福澤諭吉のもと慶応義塾に学び、時事新報記者になりその後、三井呉服店(三越)で様々な経営改革を行った異色の茶人です。

遺香庵
修復後の倚松庵

倚松庵は、戦後1950年代まで使われその後閉鎖されていましたが、1990年代に入り美術、茶道関係者から修復の要望が高まり保全活動の一貫として「第一回益田鈍翁記念茶会」が1994年(平成6年)の今日5月28日行われたものです。
その後、倚松庵は1996年(平成8年)11月5日に横浜市文化財に指定されましたが、損傷が著しかったため横浜市の援助と指導を受け解体修理され一般公開されました。現在は茶会等に使用することが出来ます。
http://www.sojiji.jp/honzan/map/8_isyouan.html
(余談)

兵庫県神戸市東灘区にも「倚松庵」という名の歴史的建造物が残されています。文豪谷崎潤一郎の旧居で、庵号は夫人の名前「松子」に因んで命名されましたが、横浜本牧から神戸に移り住んだ谷崎が益田達と同時期1936年(昭和11年)11月から1943年(昭和18年)11月まで居住していたというのも奇遇です。

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