早いもので2012年も残すところ二ヶ月となりました。
何時の時代も港に大型客船が入港すると、桟橋近辺は一気に華やぎます。
1881年(明治14年)10月31日の今日、横浜港に停泊していた
英国軍艦「BACCHANTE」に乗船する英国(王子)を明治天皇が訪問しました。
(日本の岐路)
英国軍艦「BACCHANTE」が日本を訪れた
1881年(明治14年)は維新以降、
三条実美による太政官制によって暫定の政府運営が行われていました。
近代日本の“姿”が激しく議論されていた時期にあたります。
明治6年には
西郷・板垣・江藤・後藤・副島の5人が一斉に辞職する「明治六年の政変」が起ります。
明治10年には
わが国史上最後にして最大の内乱「西南の役」が起こり、
明治11年には「大久保利通暗殺」という動乱を経て、
14年初めには大隈失脚の「明治14年の政変」が起ります。
国の方向を決めるに際し、最も国政がざわついている時期でした。
「明治14年の政変」で
英国流を推す大隈重信が失脚したばかりのこの時期に
英国王子が遠洋航海の途中に日本(横浜)を訪れます。
英国駐日公使は幕末から着任していたサー・ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes)です。当然、この時期の日本政府の微妙な立場をパークスは十分に理解していましたから、英国皇室要人の訪日に対しどうずべきか迷ったに違いありません。
(二人の青年)
手元の資料には
「午前十一時、横浜行幸、英国皇孫御乗込の同国軍艦へ御乗艦、御対顔被為済、午後二時還幸被為遊たり、当日碇泊の各国軍艦並神奈川砲台より祝砲を発し、海陸とも大に賑ひたり」
“午前11時、明治天皇が横浜に行幸になり、イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトルおよびジョージを御訪問になつた”
とあります。
これを頼りに、この日の出来事を追ってみました。
横浜に入港した英国軍艦は、当時としては旧式に入る帆柱が3本あるタイプの軍艦コルベット「バッカント」HM IRON CORVETTE BACCHANTEでした。
奥の三本マストがバッカント号 |
当時の英国は
歴代イギリス国王の中でも最長の在位だったビクトリア女王の時代です。
首相はビクトリアの宿敵、最も嫌いだった自由党のグラッドストン、
英国も内政の混乱を経てようやく英国二大政党が確立期に入り始めた頃です。
1879年(明治12年)に王位継承権のあるビクトリア女王の孫二人が、
帝王学の一環として
三年に渡った長い船旅にでます。
西インド諸島や南アフリカ、南アメリカ(フォークランド)、地中海、エジプト、アジアなどを訪れる大帝国領の実地見聞の旅です。
その途中、インド洋経由でオーストラリアに入り三ヶ月余り過ごした後、日本に到着します。
(イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトル)
アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワード(Albert Victor Christian Edward, 1864年1月8日〜1892年1月14日)、当時18歳。
イギリス王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)と
妃アレクサンドラの長男です。
王位継承権者でしたが若くして肺炎で亡くなります。
(もう一人の孫ジョージ)
ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート・ウィンザー(George Frederick Ernest Albert Windsor, 1865年6月3日〜1936年1月20日)後のジョージ5世(George V)です。
アルバートとは一つ年下の弟で17歳。
ジョージはアルバートと共に19世紀後半の大英帝国を生き、
20世紀前半激動の英国を統治した国王となります。
※ヴィクトリア女王 → エドワード7世国王 → ジョージ5世国王 → ジョージ6世国王 → エリザベス2世女王8(現在)
後のジョージ5世、フレデリックは来日中、
外交当局を通じて彫千代(宮崎匡)に、
龍の刺青を自身の腕にさせたことで有名です。
11月には京都で狂言「墨塗」「腰祈」を鑑賞するなど日本文化にも触れます。
その後、11月下旬には上海へ向かい、香港、シンガポールを経由しスエズ経由で地中海に向かいます。
(帝王学)
二人の長い世界旅行は、英国王室の“帝王学”の旅でした。二人が日本に約一ヶ月滞在しますが、時の明治天皇(29歳)は自ら横浜港を訪れ、二人を訪問します。
この時の資料が手元に無いので、判断はつきませんが
王室の二人を招待するのではなく、
自ら出向いた背景には様々な理由があったのだろうと推察できます。
10歳年下の若き英国王室の青年は、明治天皇にどう映ったのでしょう。
その後の日英関係にプラスであった事は間違いないでしょう。
(他に10月31日の関連ネタ)
1935年(昭和10年)10月31日
横浜ドック会社が三菱重工業会社に合併された
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
1987年(昭和62年)10月31日
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No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺