No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に

今日は群馬県民の日です。
横浜と群馬の深い繋がりを紹介しましょう。

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(前段)地域ブランド力最下位
「7月、4回目の「地域ブランド調査」として都道府県の魅力や認知度など72項目をアンケートした。インターネットを通じて3万375人から有効回答があり、群馬については591人の回答を反映。過去調査で群馬の魅力度は40位台で推移しており、初めて最下位に転落した形になった。」
さらには
http://www.tsurumoto.com/tourism/2011/02/post-36.php
なんて調査も。上州人立ち上がれ!!!
草津や尾瀬、高崎、前橋では認知度があるのに「群馬」が弱いのはどうして?北軽井沢だって群馬県だよ!南関東の人間なら群馬産の野菜無しには「鍋」もできませんぜ!
この評価軸 神奈川県より横浜市という現象にも似てますね。県単位なんてナンセンスだと私は思うんですがね。まだ県民性(幕藩体制)は重いのかな?
群馬の観光
http://gtia.jp
→世界遺産に「富岡製糸場」が!これが群馬県の知名度に繋がれば良いのですが。
(序段)シルクロード
横浜と群馬の繋がりはまさに「シルク」、絹の道でつながっています。陸路でいけば国道407号線と国道16号線を使って一気に横浜まで南下する道がつながっています。

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一方水路は利根川下りで江戸前経由で横浜まで「絹の水路」がありました。
高島嘉右衛門が提言したといわれている日本最初の私鉄「日本鉄道」(現在の東北本線や高崎線、常磐線)も、絹の道があったからです。
その後東武鉄道が久喜と北千住を結ぶ区間で営業を開始しますが、これも絹産業があったためです。
■全ての道は横浜に
明治初期、日本の外貨獲得は殆ど「絹」残りを「お茶」で占めていました。絹とお茶無くして明治維新は成功しなかったのです。
その一大生産地が「群馬県」でした。
横浜から輸出される上州産の絹は厩橋(うまやばし)を語源に持つ前橋に集積され、鉄路、陸路、水路を使って横浜に運ばれました。

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前橋市マーク なんとシンプルな

そのため今も前橋には煉瓦の歴史的建造物が多く残されてます。横浜も前橋も最先端の煉瓦の街でした。

No.2669月22日(土)ハマの赤レンガ

ここで少し紹介した「旧下野煉化製造会社(シモレン)」は住所こそ栃木県ですが、群馬県に隣接しています。(下都賀郡野木町)

(中段)上州生糸商人見参
横浜を切り開いた実業家の中で、甲州と上・武州(同じ活動圏)の商人達は絹の取引を元に財を築きあげますが、街づくりに必要な資金を積極的に提供したことでも評価されています。横浜は商人によって整備されてきた街ともいえるでしょう。
群馬県出身で横浜と関係のある商人といえば
初代茂木惣兵衛(野澤屋)
伏島近蔵(初代前橋市長)
中居屋重兵衛
下村善太郎
左右田金作(銀行家)

埼玉県神川町出身の原善三郎と
富岡製糸場を経営した原三溪(富太郎)
http://www.sankeien.or.jp

(はまぎんに生きる上州)
シルク取引には金融機関が必要でした。当時の生糸商人は、銀行も設立します。第二国立銀行(原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛ら)そして第七十四国立銀行(伏島近蔵)
いずれも生糸貿易のために設立され、その後合従連衡の末、このシルクバンクは横浜銀行になっていきます。

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支店マップ左上に「群馬県」が

横浜銀行支店群の中で「群馬県」があるのは長いシルクの歴史があるからです。
http://www.boy.co.jp/cgi-bin/area.cgi?ac=15000
桐生支店群馬県桐生市本町6丁目371番地の2(0277)22-7131
高崎支店群馬県高崎市連雀町8番地の1(027)322-4411
前橋支店群馬県前橋市本町2丁目11番2号(027)221-9221
南群馬の拠点を現在でもおさえています。全て川の港近くに形成された中心部に位置しています。

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