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No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

横浜の災害史に登場する最初の事件は
1866年11月26日(慶応2年10月20日)(月)の
今日起った関内の大火“豚屋火事”です。
近年では「慶応の大火」と表記することが多くなってきましたが
ここでは「豚屋火事」を使用しますのでご了承ください。
このエピソードを書き始める直前、
困った事態が発生したため
ネットや自宅の資料をひっくり返す大騒ぎになってしまいました。

(記述が異なる)
今日のテーマは簡単に終わるだろうと思っていましたが、
深夜に基礎資料の確認をするのは想定外でした。
本来書きたかった「日本大通」のエピソードは簡単にしています。
ブラントンについては12月に書きます。

No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う

本題へ
この関内大火“豚屋火事”は手元の資料では、
慶応二年十月二十日と表記されていたので、
そのまま気にせず資料を整理していました。
ところが

さあ本番でと確認のためネットでWikiで調べたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/豚屋火事
「旧暦の慶応2年10月21日午前8時頃、
港崎遊郭の南(現・神奈川県横浜市中区末広町)にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火。」
関連データの「横浜公園」にもWikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜公園
「横浜港が開港された時代、関内であったこの場所には当時港崎遊郭があった。しかし1866年11月26日(慶応2年10月21日)の大火「豚屋火事」によって焼失」

と「慶応2年10月21日」説が記述されていました。他のネット記事でもこの「慶応2年10月21日」説が多く出現しました。私が確認したブラントンの本の間違いか?
手当たり次第に年表や記述を調べたところ、横浜市の中区史含め
1866年11月26日(慶応2年10月20日)横浜慶応の大火「豚屋火事」が有力のようです。
というかWikiは明らかに誤記したのではないでしょうか。

当時の資料からも「慶応二丙寅年十月二十辰の中刻」とありますからまず20日で間違いないと考えます。

(大火の概要)
「慶応二丙寅年十月二十辰の中刻」ですから午前九時頃です。
末広町の豚肉業を営んでいた鉄五郎方より出火した火事が折からの強風で運上所・改所・官舎など日本人街の3分の2、英一番館など居留地の4分の1を焼失しします。
この火事で写真家ベアトのスタジオと資材が焼失するなど、横浜開港場に深刻な被害をもたらします。

(開港場再起の条件)
居留地の外国人は、この大火によって木造住宅から煉瓦住宅に変える動きが加速します。居留地の日本人街に対しては、「彼我ノ境界ナルヲ以テ塗家ニアラサレハ建築スルヲ許サス」として防火帯を要求してできた通りが現在の日本大通りです。ただ、日本大通がすぐできた訳ではありません。
居留地の外国人達は第3回目地所規則変更を求めます。
「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」という
(かなり大掛かりなインフラ整備)要求を幕府に提出します。
大火から一ヶ月後の11月23日に締結され、幕府はインフラ整備に入りますが、慶応二年といえばもうすでに「徳川幕府」は“問責決議”から不信任案議決までいってましたから完全に履行することが出来ず新政権に引き継がれます。

明治になってから再度「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」の履行を求める要求が出され、山手公園、横浜公園、根岸競馬場、外国人墓地含め居留地の整備が行われました。

この時に中央車道60フィート、歩道・植樹地帯左右各30フイートの近代的な道路を設計したのが英国人技術者ブラントン(Richard Henry Brunton)です。彼はそもそも灯台づくりのために「お雇い外国人」として日本にやってきましたが横浜の都市計画に関わり多くの功績を残します。美しい「日本大通り」は防災道路だったのです。

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