No.293 10月19日(金)Citizen of No Country

日本の明治草創期の西欧文明との接点に
重要な役割を担った『OYATOI GAIKOKUJIN」フルベッキは
1881年(明治14年)10月19日(水)
横浜伊勢佐木近くの羽衣町下田座で多くのキリスト教関係者の一人として演説を行いました。

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中央下部羽衣座は旧名「下田佐の松」と呼ばれていました

(お雇い外国人)
幕末から明治にかけて欧米の先進技術や学問、制度を導入するために雇用された外国人を「お雇い外国人」と呼びました。
資料から2,690人の“お雇い外国人”の国籍が確認できます。
明治元年から明治22年までに
イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人が日本国内で雇用されました。
この中には、宣教師として来日し語学等の教師を経て「お雇い」となった外国人も多く含まれていました。

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フルベッキ

フルベッキは米国オランダ改革派の宣教師として幕末に来日し、
布教活動が禁止されていたため英語教師をしながら
日本に布教活動の基盤づくりを行いました。
幕末に長崎で佐賀藩校英学塾「致遠館」校長の時、
そこに多くの明治維新の原動力となったメンバーが出入りします。

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致遠館の生徒とフルベッキ

特に、マリア・ルス号事件で活躍した副島 種臣(そえじま たねおみ)、総理大臣となった大隈重信は彼の下でアメリカ合衆国憲法を教科書に英語を学び、欧米事情を吸収します。

(謎多きフルベッキ?)
Guido Herman Fridolin Verbeck(ギドー・ヘルマン・フリードリン・ヴァベック)は
オランダのユトレヒトの裕福な商家に生まれます。日本では謎多きフルベッキ像が喧伝されていますが、実像は技術者でありキリスト教徒であった彼の見識に神秘性があったのが実像ではないでしょうか。
工学学校で設計・機械工学を学び22歳でアメリカに渡ります。
技術者として働く中、重病となり病床でキリスト教に目覚めます。
健康を回復した後、神学校に入学し外国宣教師を目指します。
1859年に米国オランダ改革派教会の宣教師として三組のメンバーの一人として日本を目指します。

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来日した三人の米国オランダ改革派教会の宣教師

発疹チフスで苦しんでいた福澤諭吉を治療し、
医療と医学教育に力を注いだ“横浜市大医学部の祖”シモンズ(Duane B. Simmons)夫妻、明治学院となったブラウン塾を開校した横浜バンドメンバーを育てたブラウン(Samuel Robbins Brown)夫妻らと共にケープタウン経由で上海経由で来日します。
長崎での教師を経て、明治に入り上京し、勝海舟、松平春嶽、小松帯刀らの留学相談に尽力します。
1869年(明治2年)に大きな転機が訪れます。
三条実美の命で大学南校(後の開成学校)教師となります。
政府関係者の顧問となり「ドイツ医学」採用、法律の整備等を提言し信頼を得ます。

(明治版フルブライト)
フルベッキは多くの日本人のアメリカ留学を斡旋します。岩倉具視の息子二人、高橋是清を始め大学南校の生徒をアメリカに送り出します。
一方、アメリカからグリフィス他外国人教師を斡旋するようになり、外国人として文部省の最高顧問となります。また政府の法律顧問として国際法の重要性「内政不干渉」の原則を説き日本政府の条約改正に大きな影響をあたえますが、フルベッキが最も伝えたかった自由、平等、民主の思想が必ずしも実現することはありませんでした。

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フルベッキ参考図書

(市井の外国人)
1877年(明治10年)に「お雇い」契約が終了し失業します。
高橋是清の尽力で帰国の資金を作り米国に戻りますが物価高に苦しみ1年後日本に再来日し(戻り)ます。
ここから68歳で亡くなるまでの20年間は宣教師として全国を旅し布教活動に専念し、晩年は明治学院神学部教授として教壇にも立ちます。
1898年(明治31年)に東京で亡くなった時には多くの教え子が集まり、慰霊碑が建てられ異例の政府の弔意を示し葬儀には近衛師団儀仗兵が派遣されました。

(無国籍)
意外なことに、Guido Herman Fridolin Verbeckは無国籍でした。
近代法の「国籍条項」の隙間が彼を無国籍にしました。
母国オランダでは「5年以上在住」しないと国籍を失うと規定されていたため、アメリカに移ったフルベッキは5年後オランダ国籍を失います。
一方、米国の国籍条項では「国内に三年間在住」した時点で帰化申請が可能となりますが国籍取得までに5年必要で、計8年米国内に暮らしていないといけない。
フルベッキは7年目に日本に来たため米国籍も取得できていません。
無国籍のまま「米国籍取得の意思あり」という本国の友人が当時の米国公使ハリスに依頼した書簡のみで来日(入国)します。
その後、
フルベッキはこの書簡を元に「パスポート」(アメリカ国籍)を申請しますが、アメリカ合衆国は却下します。
結局、アメリカ公使が日本政府に対し、米国籍は無いがフルベッキを日本国内で特別扱いして欲しいと「勧告」します。
日本政府は外務大臣榎本武揚の命でフルベッキに特別永住権(国内の自由旅行権)を認めます。
おそらくこれでフルベッキは日本に骨を埋めようと決意したのでしょう。
フルベッキの紹介で福井藩に勤めたグリフィスは
後に「フルベッキ伝」で「Citizen of No Country」(無国籍人)と記述しています。

■現在もある「無国籍」問題
無国籍とは「法的にいずれの国の国籍も持たないこと。」自らの意思ではなく、政治的理由から国籍を失った人々が国内外に多くいます。
この問題に取り組んでいるNPOが横浜にあります。
特定非営利活動法人 無国籍ネットワーク
横浜市戸塚区戸塚町121-7 オセアン戸塚町ビル3階
http://www.stateless-network.com
代表理事の陳 天璽(国立民族博物館准教授)さんは、
横浜中華街育ち、政治の狭間で無国籍になりました。

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(余談)
フルベッキについては一部都市伝説のように希薄な偽情報が流れています。
「フルベッキ写真」と言われている集合写真です。
1895年(明治28年)に雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介されたものです。

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ところが戦後、この写真の都市伝説は坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文が画家によって発表されたことに端を発します。
写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定していますが、
時代考証としてまずこれはありえないことが専門家により証明されています。
(文献)
慶應義塾大学の准教授・高橋信一 レポート
東京大学大学院の倉持基『「フルベッキと塾生たち」写真の一考察』(『上野彦馬歴史写真集成』(馬場章編、渡辺出版、2006年7月 )

藤充功『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え”説のトリック』ミリオン出版
最近読んだこの分野の文献としては中々気合いの入った内容でした。史実の確認過程には若干懐疑的ではありますが、「フルベッキ群像写真」の謎解きは十分に説得性があります。(図書館でチラ読み程度で十分ですが)


福沢諭吉の「福澤心訓」同様、偽りの伝播には組みしないようにしたい。
【番外編】偽作三昧

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