No.268 9月24日(月)維新の内乱を悼む

昨今“維新”がキーワードとなっていますが、
これが明治維新をイメージしたものであるのなら、
はなはだ危なっかしいネーミングだということを念頭に置く必要があるでしょう。
わが国最大にして最後の内乱「西南戦争」が終結した
1877年(明治10年)9月24日から一年後の今日、
1878年(明治11年)9月24日「西征陣亡軍人の碑」を伊勢山皇太神宮内に建て、
式典が挙行されました。

維新後新政府政策に対する不満による“乱”(抗議運動)が全国で起ります。その最大級の乱が「西南戦争」です。
一般的には政府内での「征韓論争」に破れ下野した西郷隆盛と
新制度に不満を持つ士族が結集し決起した“暴動”とされている場合が多いようですが、
必ずしもそれだけではなさそうです。
史実は殆ど謎のままです。(ここは西南戦争論義の場ではないので別にて議論します)

西南戦争は九州全域を戦場とし
1877年(明治10年)2月15日〜9月24日までの約七ヶ月に渡って薩摩軍、政府軍併せて12,000人が戦死、20,000人の負傷者がでました。
新政府誕生後行った徴兵による軍隊と、かつて戦う事を職としていた“武士”との総力戦でもありました。
この戦争で、政府の戦費は約4,100万円にのぼり、当時の税収4,800万円のほとんどを使い果たします。
政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し、インフレーションが発生し、日本国の経済破綻寸前まで追いつめられます。
話しを横浜に戻します。
神奈川県内で徴兵されて西南戦争で戦死した十数名の為に忠魂碑を建てようという(全国的な)動きの結果
三条太政大臣の揮毫により「西征陣亡軍人」の碑建立計画が進行します。

碑の脇に建つ灯籠には「茂木 惣兵衛」の名が

式典は西南戦争終了記念日である
9月24日に行われる事になり、当日は県知事、政府関係者を始め、戦死者遺族らが参拝し、陸海両軍による奏楽や琴、撃剣、囃子等の催しまで行われたそうです。市内には各戸軒に提灯を掲げたとありますから、かなり派手にお祭りが行われたようです。
東京から送られた政府軍は横浜港から出港したこともあり当時の市民は複雑な気持ちで出兵を見送り、提灯を掲げたに違いありません。

横浜から西南戦争に行く兵士達(Wiki)

この戦争で亡くなった西郷軍の死者は、全て賊軍となりました。
戊辰戦争から10年目のことです。

(横浜洋銀取引所)
ほぼ国家予算を使い切った日本は、経済金融制度が未熟な中、大量の不換紙幣発行を行ったため、為替価値が下がり外国貿易の中心地「横浜」に大打撃をもたらします。
金銀相場が急騰し貿易ができない状態まで追いつめられます。
そこで横浜経済界は「横浜洋銀取引所」を創立し貨幣相場の安定に務めます。
2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

また、このインフレが、外為銀行「横濱正金銀行」設立のキッカケになります。

(もう一つの忠魂碑)
神奈川区三ツ沢公園内に「戦没者慰霊塔」が建っています。
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

この慰霊塔は「西南戦争」から「第二次世界大戦」までの神奈川県出身戦死者を慰霊するために建立されたものです。

 

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください