元米国18代大統領ユリシーズ・グラント一行が、
2年4ヶ月の世界一周旅行に出発し、最後の訪問国日本に到着したのが
1879年(明治12年)6月21日(土)長崎でした。
9月3日(水)横浜港から帰国の途に就くまでの約2ヶ月の間、ユリシーズ・グラント将軍は日本政府及び各地の大歓迎を受けます。
歓迎を受けるグラント一行 |
横浜での歓迎 |
今日は、横浜・東京滞在中のグラント一行の様子を紹介します。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
グラント将軍は、アメリカ最初の国賓クラスの訪日でした。
横浜港で大歓迎を受けたグラント一行は、
汽車で横浜から東京に入り浜離宮の延遼館に滞在します。
浜離宮から汐留を眺める |
浜離宮は江戸時代、徳川将軍家の別邸として使われていました。
幕末は幕府海軍伝習屯所として活用され、
1869年(明治2年)に「延遼館」が完成し鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された豪華な施設でした。
その後、宮内省の管轄となり名前も離宮と改められ明治天皇お気に入りだったそうです。
明治天皇は、グラント将軍に信頼をよせます。
滞在中の8月10日には、天皇自らグラントの滞在先「延遼館」を訪れ、日本国家が抱える課題について率直に尋ねます。会談は2時間にも及んだそうです。
汐入の池 |
天皇は侍従長を始め関係者を全て退け、
三条実美と通訳の吉田公使だけでグラントとの会談がもたれました。
話題は多岐に渡りましたが、まず政治制度、選挙制度の話しから始まり経済、外交問題に及びました。
清国との沖縄を巡る領有権に関しても日清の軍事力に触れ「日本は軍事物資,陸軍,海軍ともに清国に勝っている。
清国は日本に手も足も出ない、と言ってもいいくらいだ。
清国が日本に損傷を与えることなど不可能である」と述べていたグラントですが天皇には融和的な態度を求めました。
実は、グラントはこの旅で日本の前に清国を訪れた時、清国摂政と李鴻章から“沖縄問題”で仲介役を依頼されていました。グラントは、この問題は両国外交上の問題で“自分”が介入するべき問題ではない。だが日本の国際的な状況と傷ついた清国同志の争いは避けるべきだと「日清両国」に説きます。
問題にすべきは
中国をめぐり利権に血まなこになるヨーロッパ列強であると英仏を批判し、
戦争による介入や
「外国からの借金ほど、国家が避けなければならないことはない」と
列強が融資を通じて支配をもくろんでいることを警告します。
また、不平等条約改正にも理解を示し、諸外国は改正に応ずるべきだとも述べます。
グラントを含め、アメリカがピュアな時代でした。このグラントが忠告したことをその後、星条旗の国が行ったことは歴史の皮肉です。
(日米の共感)
1879年(明治12年)の日本政府は、神風連の乱、秋月の乱他国内の新政府に対する不満を押さえ込んだ直後に起った、
明治政府最大の危機、西南戦争がようやく沈静化した状況でした。
明治天皇は、規模は異なりますが、明治維新、西南戦争にアメリカの独立と南北戦争を重ねたのかもしれません。
グラント一行は、公式日程の合間に
東京を軸に日光、箱根などを巡り各界の歓迎会に出席するという濃密なスケジュールをこなします。
そして帰国が近づいた8月26日(火)
最後の歓迎園遊会(ガーデンパーティ)に出席します。
会場は、横濱居留地234番地の横浜亜米利加領事館でした。
ヨコハマプレスによれば、居留地の催しでこれほど成功を収めたものは無かったと報道されるほど華やかなパーティが開かれます。
居留地の代表、政府閣僚、財界人、領事館員、外交団、県庁などの役人、士官等が集まり夜を徹して行われました。
園遊会の開催されたアメリカ領事館はその後、
横濱山下町6番地に移動します。
この跡地に今は無き「ザヨコ The Hotel Yokohama」が建ちます。
現在はホテルモントレになっています。
全ての日程を終えたグラント将軍は、
宮城に天皇を訪ね“暇乞い”を済ませ帰国の準備をします。
最後の送別夜会が9月2日(火)に「延遼館」で開催され翌日、新橋駅より特別列車に乗り横浜駅に向かいます。汽車道には見送りの人々で埋め尽くされ、港には多くの高官が見送りました。
横浜港風景 |
戦前、日米関係が最良の瞬間でした。