横浜年表ピックアップ【10月15日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

※この日に関係する 俳人、思想家、経済人
 市政、経済動向を紹介しました。
 
●1901年(明治34年)の今日
滝春一( たき しゅんいち) 横浜に生まれ水原秋桜子に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人として活躍。
1939年(昭和14年)から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが、昭和41年に復帰し昭和57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞を受賞。
人生の機微をうたった多くの句を残します。1996年(平成8年)4月28日に死去。

●1912年(明治45年)の今日
石川三四郎(36歳)
横浜市(中区)根岸町字西竹之丸3178番地に転居してきます。
石川三四郎は、埼玉県出身
明治〜昭和時代にかけて活動した社会思想家、社会運動家です。東京法学院(現在の中央大)に学びキリスト教の洗礼を受けます。
1902年(明治35年)万朝報(よろずちょうほう)社に参加しその後「平民社」にはいり解散までここで言論活動を行います。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1170.html
1906年(明治39年)2月に石川は田中正造に出会い、足尾・渡良瀬の問題に関わっていきます。この年「平民新聞」の主幹に就任します。
当然、活動の高まりで警察との摩擦が高まり、逮捕入獄します。
石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため出獄した後、
1912年(明治45年)の今日 根岸海岸に彼を支援するクリスチャンのツテで転居します。転居後は、近所の住民に「幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」などと言われながらも海水浴を楽しむ毎日だったそうです。
1913年(大正2年)3月フランス船ポール・ルカ号で“亡命”という理由で渡仏します。フランスではポール・ルクリュ夫妻と親交を温め広く知識の吸収に努めます。
1920年(大正9年)10月に突然帰国します。
日本が生んだ代表的なアナーキストといわれている割にあまり知られていません。戦前の無政府主義(アナーキズム)といえば幸徳秋水や大杉栄が有名です。歴史学者、家永三郎は石川三四郎を称して「国宝的人間」と呼びました。
1921年(大正10年)11月に再度渡欧の旅に出ます。この時に、石川の運命を変える出会いがあります。この船には「北白川宮」がルーマニア皇太子訪日への答礼としてルーマニアに向かう一団が同乗していました。この一行の随行員の一人 尾張徳川家19代目当主、徳川義親(とくがわよしちか)と急速に親交を深くします。
徳川義親は、越前松平春嶽の五男で、帝大に学び“イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力”に友人を持つインテリでした。実は、「北白川宮」一行が乗船する際に、警察から“この船には大逆事件の幸徳秋水の友人が乗船している。石川は社会主義者なので注意されたい”旨の情報がもたらされていました。この情報の元、徳川義親は石川三四郎の人物像を気に入ります。
徳川義親の知遇を得たことで、石川はその後なにかと物心両面の支援をうけることになり、関東大震災の時に多くの思想犯が投獄された際、徳川義親との知遇から官憲の取り調べを避けることができます。
1927年(昭和2年)共学社をもうけ
1929年(昭和4年)「ディナミック」を創刊します。
戦後になると日本アナキスト連盟を組織し80歳の生涯を閉じます。
※だらだらと長くなってしまいましたが、戦前の大杉、幸徳、石川 彼ら三人の生き方は同じ社会主義者として全く異なった人生を歩みます。この時代の人物にとても惹かれます。

●1946年(昭和21年)の今日
終戦後の横浜経済をどうするか課題山積の中、横浜商工会議所の復活創立総会が焼け残った商工奨励館で開催されます。再出発の定款の承認と役員の決定を行います。
会頭には後に横浜市長となった「平沼亮三」

聖火を持つ市長像も珍しいのでは?

副会頭には原合名会社社長「原良三郎」
三菱重工横浜造船所所長「李家孝」が選出されました。
が、「平沼亮三」「原良三郎」両氏は辞任を表明、
野村洋三(ホテルニューグランド社長)を会頭に
柳沢鉱一(横浜興信銀行後の横浜銀行頭取)が選ばれます。
その後1950年(昭和25年)11月22日に再度「平沼亮三」が頭取に選ばれますが
1951年(昭和26年)に横浜市長選出馬のため辞任(市長選には当選)
「原良三郎」が会頭に選ばれました。

●1961年(昭和36年)の今日
山下ふ頭第二突堤五号岸壁が完成します。
山下ふ頭は1953年(昭和28年)に着工、1963年(昭和38年)年に完成しました。

本牧ふ頭は
No.343 12月8日(土)横浜港の本職は?

●1966年(昭和41年)の今日
自治省は、第61国会で成立した地方公営企業法改正により
財政再建団体として「横浜市」を第1号に指定します。
1952年(昭和27年)8月1日に地方公営企業法が制定されます。
「地方公共団体の経営する企業について、能率性・経済性を発揮させる水道・軌道・自動車運送・地方鉄道・電気・ガス。地方公共団体の長の組織のもとに企業の管理者を置き、管理者は、企業職員の任免等の権限を有し、業務の執行については地方公共団体を代表するものとし、財務上は企業の経理について特別会計を設け、発生主義に基づく企業会計方式を採用し、企業職員の身分取扱いについては労働組合としての団結権・団体交渉権を認める。」
そして1966年(昭和41年)7月5日に
地方公営企業法が改正され「企業団制度の新設による管理者の権限強化など」により赤字経営の公営企業の再建に政府から財政援助を受けるための「財政再建計画」(合理化)が必要となり、
横浜市を含め 市電廃止がこの改正法で加速された経緯があります。

●1978年(昭和53年)の今日
日本の硬式庭球発祥の地(フェリス女学院裏)で誕生100年記念祭が行われました。

●1984年(昭和59年)の今日
みなとみらい21地区を含む「西・中区」が
通産省のニューメディア・コミュニティ構想のモデル地域に指定されます。
通産省・郵政省・建設省・農林水産省他がこぞって推進してきた「地域情報化政策」の一つです。
「テレトピア構想」日本版ビデオテックスであるキャプテンシステム等々
「インテリジェント・コミュニティ構想」
「テレワークセンター整備事業」「マルチメディア街中にぎわい創出事業」「田園地域マルチメディアモデル整備事業」「eまちづくり」「ITビジネスモデル地区構想」

ニューメディア・コミュニティ構想の目的は
「地域間の情報化格差を是正するとともに、地域の情報化を通じて活力ある地域社会を創造するため、地域コミュニティの産業、社会、生活の各分野におけるニーズに即応する情報システムの構築を国、地方自治体民間の密接な協力の下に行い、これにより高度情報化社会の円滑な実現に寄与しようとするもの」
①モデル地域を選定し、地域のコンセンサスの形成を図りながら、具体的に情報システムを構築、運用することによって情報システムの評価を行い、改善点を実態に即して検証し、情報システムの構築、運用に関するノウハウの蓄積を図ります。
②モデル地域に蓄積されたノウハウを応用発展させた形で普及させるため、応用発展地域を指定し、情報システムの構築を進めます。
③先行的に情報システムを構築したモデル地域及び応用発展地域を、全国的なネットワークの拠として位置づけ、情報システムの普及及びネットワーク化に貢献させます。 
( 2つのタイプ)
先行的に情報システムを構築するモデル地域
モ デル地域で蓄積されたノウハウを応用発展させる応用発展地域が指定され
指定地域には推進法人に対する出資や融資,貸付制度などが設けられた。

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