No.218 8月5日 (日)夢の夢の夜夢覚め

墓碑や歌碑を巡る旅と言えば江戸や京都のお寺さんが常道ですが、ご当地横浜にも「お寺さん」コンテンツがいろいろあります。
今日は、横浜市保土ケ谷区岩井町にある臨済宗 建長寺派「福聚寺」というお寺に墓誌のある「五返舎半九」をちょっとだけ紹介しましょう。
ちょっとだけというのは、この「五返舎半九」を語り出すといろいろ広がってきます。少しややっこしいところもありますが関心のある方はぜひ「福聚寺」をスタートに“半九”めぐりをどうぞ。

五返舎半九、本名を府川重次郎、屋号が「桔梗屋」と称した幕末の戯作者です。なんで戯作者名の他に屋号があったかと申しますと、彼二足のわらじを履いておりまして、生業が江戸で繁盛したお菓子屋だったそうです。1784年(天明4年)江戸に生まれ
昨日紹介した1858年(安政5年)のコレラパンデミックで8月6日に亡くなっています。
No.217  8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

五返舎半九(ごへんしゃはんく)とはちょっと変わった名です。
十返舎一九という名を挙げれば“関係あり!”と想像できそうでしょ。
五返舎は、江戸の人気作家『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍有名になった十返舎一九の弟子の一人です。
師匠「十返舎一九」の十返の半分で五返舎とし、一九の半分で半九と称して命名したそうです。
彼の他にも十字亭三九、九返舎一八といった師匠の名をもじった門人というか弟子がいましたが結構適当な弟子が多かったそうです。
その中で、五返舎半九はまともな方だったようです。
彼は活動の舞台が江戸でしたから何故横浜に墓誌があるのか、正確な資料がないため残された資料で推測するしかありませんが、五返舎半九の子供の一人、娘の“きく”さんが関内の港町(みよざき)遊郭「橋本楼」の橋本家に後妻となり その菩提寺がここ保土ケ谷の「福聚寺」ということから1880年(明治13年)の祥月命日8月5日(二十三回忌)実父の墓も橋本家の墓地の一角に建てたというのが理由のようですから親孝行な話しです。
前述の通り、五返舎半九は“コロリ”で亡くなりますが、当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限が厳しくまともな葬式もできなかったのかもしれません。
最後に
彼の作品を少々

雲母坂くもと見る時しぐれけり

扇もてまねくも見えつたび人の
あとやさきなる熊谷の土手

むらさ紀は江戸の土なり秋茄子
※彼は茄子が大好物だったそうです。

ぬば玉の夢の夢の夜夢覚めて
獏の尿とも悟りてしかな

(余談)
また彼の子供、孫は「府川一則」(初代から三代)を名乗り、画家・彫金家・七宝家等で名を残しました。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukawa_k.html

臨済宗 建長寺派「福聚寺」
http://www.fukujuji.or.jp

最後に、谷中墓地や青山墓地のような霊園は別にして、一軒のお寺さんを巡るときは静かにそして“お賽銭”のひとつも用意して参るのがマナーというものです。できれば一声断ってからめざすお墓に向かったほうが良いでしょう。

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