No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

今日、6月27日は何をテーマにするか?
迷いました。
選んだキーワードは「発明と博覧会」です。

内国勧業博覧会の図

6月27日といえば、
第一候補は、文久3年5月12日(1863年6月27日)長州五傑「井上聞多(馨)」「遠藤謹助」「山尾庸三」「伊藤俊輔(博文)」「野村弥吉(井上勝)」の5名が英国留学のため横浜を密出国した日です。このテーマは旧暦5月12日ネタにしました。
No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama

超マイナーでは、神奈川県警神奈川署が明治17年に「署」に昇格した日です。

これはこれで神奈川の初期警察の話しで面白い。
(だから?ネタだし…)

もう一つが、
1882年(明治15年)神戸・横浜などの7港に悪疫防止のため船舶検疫制度実施された日です。横浜の防疫体制確立はかなり切羽詰まったテーマです。
(これは森鴎外、野口英世 含めネタを練らねば…)

ということで、今日はこのブログらしく
 もっと横道系にすることにしました。

知らない方も多い?何でしょう?

1877年(明治10年)6月27日(水)横浜の発明王といわれた山田与七が、「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」を発明?!した日なんだそうです。
また、
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」?というデータを歴史年表の片隅に発見しましたので、ここから横浜を掘ってみます。

山田与七という名は、このブログでも既に登場した人物です。


「No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王」の山田与七です。

与七は、名古屋に生まれ明治維新早々
横浜で事業を起こそうと考えた多くの「ハマの起業家」の一人です。
神奈川芝生村(かながわしぼうむら)に居を構えました。
※芝生村は音が良くないということで、後に廃止された町名ですが現在の西区浅間町あたりで交通の要所です。ここに追分(大山街道と東海道)があります。

芝生村あたり(現在の浅間町)

山田与七は、横浜で送電用の電線を製造する会社を起こし「電線製造」の先駆的役割を果たした人物です。
銅線を布で巻き絶縁した電線(袋打ちコード)を作り成功します。今でも使われていますが、古い民家などには布の電線が陶器ガイシを伝い使われていました。

綿コードと陶器碍子が現役の山形「山居倉庫」

この電線、材質は銅線が一番で電気の普及と共に需要が急増した工業製品です。
山田与七は1884年(明治17年)頃、高島町に山田電線製造所を作り成功します。

山田電線 創業の高島9丁目あたり(現在の神奈川区金港町)

1896年(明治29年)には横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社となり、裏高島の工場で次世代電線のゴム被覆線の製造に着手します。
当然ですが、電線には「銅線」が、絶縁には「ゴム」が必要になります。紆余曲折ありこの「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)に、「ゴム」製造部門が横浜ゴムとなり現在に至っています。
その工場がある場所が「平沼橋」
TVKプラザ横浜近辺です。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/

横浜イングリッシュガーデン
http://www.y-eg.jp/

まだ古河の施設が残っていた頃

ここまでの話しは「No.127 5月6日」の延長線ですのでおさらいも兼ねました。

■1877年(明治10年)6月27日

「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」
「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」
このあたりを掘ります。
クロモジから香水・香油にするのは古来からあった技術で、
いまさら横浜の発明王が“発明する”話しではないはずです。
では?
量産のための製造機器の発明だろう推測できます。
調べてみました。
※クロモジ 高級な爪楊枝として使われている落葉低木で明治期には香料として欧州方面へ輸出されていた人気商品だったそうです。

イヌガヤ

もう一つのデータ、「犬榧子(やまがやのみ)からペンキ用のボイロ油を絞ることを発明した」(原文ママ)の犬榧子は(やまがや)とは読まない?
正しくはイヌガヤ科イヌガヤ属の常緑小高木の針葉樹で「イヌガヤ」があるがこれでは?
さらに、ペンキ用のボイロ油とは何だ?
一瞬ボロイと読んでしまいました。
これらの情報から、
私流に修正すれば、犬榧の実を絞ってペンキ用のボイル油を大量に精製することに成功したということのようです。
本州エリアには広く分布する犬榧の種子には良質の油が含まれているので大昔から油を絞り寺社の灯明に利用したと文献に書かれています。
クロモジも同じ蒸留手法です。
では山田氏は何を発明したのか?
ヒントがもう一つありました。
彼は日本の最初の産業見本市「内国勧業博覧会」に第一回から第四回まで出品しているというところから、何か装置、工業製品を発明したようです。
それは、蒸留装置と推測できます。
クロモジの油も、イヌガヤの油も水分を多く含んだ油ですので
蒸留による(量産用)分離装置を発明したのではないでしょうか。

イメージ図です。実際のものとはたぶん全く違うと思います。

第1回内国勧業博覧会
1877年(明治10年)8月21日〜11月30日
※会場は3回まで上野公園
第2回内国勧業博覧会
1881年(明治14年)3月1日〜6月30日
第3回内国勧業博覧会
1890年(明治23年)4月1日〜7月31日
第4回内国勧業博覧会
1895年(明治28年)4月1日〜7月31日
※会場を京都市岡崎公園に移します
(関連ブログ)

No.2137月31日(火)金日本、銀日本

1877年(明治10年)6月27日という月日ともほぼ一致します。この博覧会に関する記述に

「他に特筆すべき出展品はあまりないが、浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達の出展が目を引く。内国勧業博覧会は商品宣伝の場としての地位を得て、民間にも活用されつつあったようだ。」

とありますから山田与七は発明品のPRに博覧会をおおいに活用したことがわかります。

(推測のまとめ)
山田与七はクロモジの香料を抽出する装置は欧州市場拡大で成功。
犬榧の実でペンキの溶剤を精製する装置でも国内市場で成功し
電線事業に転換したのではないでしょうか。
電線製造には広い工場が必要になってきますから、
その資金源が「オイル」だったのかもしれません。
最初の電線会社が高島町の線路脇(土地が安かった?)で、その後規模を拡大しながら平沼に移ります。
山田与七
あまり歴史の表舞台には登場しませんが、日常の喜びを発明し、社会の夢を形にしていった“横浜物語を象徴する人物”の一人であることは間違いありません。

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