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No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。

今日は、関係画像がありませんが“華やか”な話題を紹介します。
関東の花柳界といえば、新橋か関内と言われた時代がありました。
関内を代表する割烹料亭「千登世」が
1881年(明治14年)6月24日(金)の今日、
住吉町6丁目79番地に開業しました。

明治以降、西欧化の最先端都市横浜であると同時に、
新橋と双璧の関内花柳界も和の最先端でもありました。
常盤町通りには芸妓屋が並び、関内周辺の料亭に出向く姿は新橋を凌ぐ賑わいを当時を知る方々の口述記録から知ることが出来ます。
(発見千登世の看板)

弘明寺観音にある 千登世の看板。大正6年とあります。

関内花柳界には、住吉の「千登世」をトップに
相生の「八百政」
尾上町の「かね田」
太田町の「日盛楼」
伊勢佐木の「あらゐ」
 など高級料亭が軒を連ねていました。
横浜には関内、関外、そして現在唯一残る神奈川の老舗「田中屋」を含め20近い料亭があったそうです。
「料亭 田中家」
http://www.tanakaya1863.co.jp/
これらの高級料亭は、当時のコンベンションルームの役割も担っていました。
住吉の「千登世」は、“千登世楼”とも言われ時の政治家や財界人の会合に使用されました。
例えば、1898年(明治31年)6月26日には東京専門学校初代学長になった高田半峰(38歳)が大隈重信とともに東京専門学校校友会春期大会に出席した記録が残っています。
時代によっては
住吉の「千登世」が憲政会、
相生の「八百政」がライバルの政友会
 といったように役割分担があったようです。
 (今も永田町あたりでも変わらないようです)
関内花柳界をデータで見てみます。
1915年(大正4年)の「料理店営業税」納税額では、
 住吉の「千登世」が645円50銭
 相生の「八百政」が395縁75銭
 尾上町の「かね田」が325円50銭
だったそうですらか「千登世」のすごさがわかります。
「千登世」にはこんなエピソードも残っています。
従業員にはプライベートでも、仕事が終わっても服装に厳しく
銭湯に行くにも細帯を締めただけのだらしのない姿を禁じ、上品さと“粋”を大切にしたそうです。

(「千登世」エピソード)
残念ながら、大正12年の関東大震災で
これら料亭は殆ど被災し壊滅します。
復興が始まる時、時代の傾向は
カフェやバーといった新しい業態が主流となっていきます。
この大正12年9月1日に襲った関東大震災は東京、横浜に甚大な被害をもたらしました。
この時、
 米軍は日本軍と緊張関係にありましたが、
 震災の第一報に米国艦隊が横浜港に終結し、
 大正版「ともだち作戦」を敢行します。
様々な救護活動に献身的な協力を行います。
この尽力に対し、日本政府が救護活動に当たったアメリカ艦隊の代表としてモンゴメリー・テーラー大将を公式に招聘します。
概ね復興された横浜港に
1933年(昭和8年)6月2日、
 旗艦「ヒューストン」からテーラー大将が横浜の地を踏みます。
入港した6月2日当日、大西一郎市長主催の歓迎晩餐会を開きます。
その会場となったのが 復興した関内住吉町の「千登世」でした。

(その後の「千登世」)
その後「千登世」の運命に関しては限られた時間では調べる事ができませんでした。
おそらく、横浜大空襲で焼失し店を閉じたのではないでしょうか。

偶然市役所脇にある
「港町魚市場を偲ぶ」碑を見ていたら関内料亭の名が刻まれていました。

明治四年神奈川県令陸奥宗光は高嶋嘉右衛門に市場開設を許可す。明治七年高嶋嘉右衛門は更に船便良き港町に市場を移す。明治四十二年嘉右衛門の代横浜港町魚問屋組合長太田徳次郎は横浜食品市場株式会壮を設立し市場一切を買収し水産物青果物問屋に店舗を貸し日増しに繁昌せり。然るに昭和六年横浜市中央卸売市場開場に伴ひ業者全部新市場に入場し土地千二百七十坪横浜市に譲渡せり。
本年は十月、五十周年を目出度く迎えらる、当時の横浜食品市場会社社長太田徳次郎専務岡田岩蔵常務畠山国太郎取締役落合三次郎、新井万次郎、石黒久次郎、吉橋龍太郎、いづ兼料亭千登世、八百政吉兼あらゐ屋可祢田等其の後続き居る業者半数に及ぶ魚河岸関係者八十余名にて青果業有力者八百友、八百信、八百清、八百吉商店五十周年を迎えて記念として碑を建立す。
浜っ子の 河岸を偲ぶや 港町  昭和56年10月吉日
建立者 鈴木吉蔵、岡田岩蔵


4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される

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