No.153 6月1日(金) 天才と秀才

いよいよ6月に突入しました。
最近切れ味が悪くなったという超個人的なメッセージも頂戴しております。
確かにちょっとパターン化して普通の横浜紹介ブログになっているようですが?
との指摘も。
ちょっと自覚してます。
さて、今日ですが1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。

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(英語の秀才誕生)
日本で内乱が起った幕末、幕府を最後まで支持したことで悲劇の道を辿った会津藩士達にも家族がいました。
藩士松川勝次郎正義の長女として会津若松市宮町に生まれた“松川甲子”は、父が青森へ(強制移封)され
母を病気で失う逆境の中で
その後の人生を変える出会いがあります。
横浜から一人の商人が仕入れのために会津若松を訪れました。
横浜南仲通3丁目で広く織物商を営んでいる山城屋和助の店の番頭大川甚兵衛でした。
大川はそこで出会った少女の聡明さに驚き養女として貰い受けます。
横浜に移った彼女は理解ある養父のもと、近くにあった
「キダーおばさんの学校」7歳で通い始めます。
後に“若松賎子(わかまつしずこ)”というペンネームで名訳を残す語学の秀才と
フェリス女学院創始者メアリー・E・キダー Mary E.Kidder (1834〜1910) との出会いです。
「キダーおばさんの学校」には神奈川県令陸奥宗光夫人を始め様々な人々が通っていましたが、純粋に生徒としてキダーに学び卒業した第一期生は若松賎子、だだ一人でした。
若松賎子はフェリス女学院第一回卒業生としてその名が刻まれています。
フェリス女学院
http://www.ferris.ac.jp/

※彼女程、名前の変わった人物も少ないと思います。
松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下に生まれます。
後の若松賤子の名は「会津若松」の若松を名のります。
 “松川甲子”→養女で大川かし→養父死亡で実父の隠姓「島田」を名のり島田かし子→ペンネームが若松賤子です。結婚し巌本かしとなります。

(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎

(二人の出会い)
ちょうどこの頃、結婚して中島俊子(中島湘烟)となったころ、明治女学校を経営し『女学雑誌』の編集人をしていた巌本善治の紹介でフェリスの教師となります。
フェリスを卒業後も、助教としてフェリスと深く関わっていた若松賤子と中島湘烟がここで出会う事になります。
1889年(明治22年)中島湘烟(25歳)は、教員としてフェリス女学校の大講堂献堂式兼開校14年祝賀会で祝賀演説を行い、若松賤子(25歳)は卒業生として「昨日と明日」という英語演説を行うことになります。『フェリス女学院100年史』
中島湘烟をフェリスに紹介した巌本善治は、この大講堂献堂式兼開校14年祝賀会の後かねてより交流のあった若松賤子の婚約を破棄させて1889年(明治22年)横浜海岸教会で結婚します。
(彼女がすでに肺結核に罹っているいることを知った上での結婚でした)

バーネットの『小公子』の名訳で知られる英語の秀才若松 賤子(巌本嘉志子)は1896年(明治29年)2月10日に心臓麻痺を起こして亡くなります。
31歳でした。
結核を病みながらも強靭な意思で家事と三人の子供の育児と執筆を続けますが、亡くなる5日前に起った夫の経営する明治女学校が炎上したことに大きなショックを受けていました。死因はそれによる心臓麻痺ともいわれています。

一方、中島湘烟も1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病、日本に帰国し治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日、信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

近代日本が一番自由で希望に溢れていた時代は、この時だったかもしれません。男も女も、明日の日本を夢見た時代が明治前期でした。

治安維持法以上にご都合主義の弾圧法が次々と生まれ、維新の自由な芽生えは現実主義の前に封殺されていきます。
1887年(明治20年)公布「保安条例」。
1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された条例

No.146 5月25日 学園祭に行こう!

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