【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

1911(明治44)年→http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877
前回紹介した三井物産ビルが建った1911(明治44)年、ビルの近くで市民垂涎のイベントが挙行された。新しい「吉田橋」の開通(渡橋)記念行事だ。
lig_吉田橋関連絵葉書吉田橋といえば幕末開港時、江戸時代に架けられた「関門の橋」として横浜史に必ず登場する超有名な橋だ。
この吉田橋は出島のような開港場(関内)と開港場を支える吉田町一帯(関外)を繋ぐ唯一の橋で交通の要衝だった。
lig_吉田橋開港直後

吉田橋

初期の「鉄橋」をモチーフにした現在の吉田橋

開港場から吉田橋を渡ると道は二手に分かれる。右へ向かうと吉田町を抜けて野毛に入る。その先には東海道に続く野毛坂から「横浜道」「保土ケ谷道」がある。
一方 まっすぐ進むと芝居小屋や商店で賑わう「伊勢佐木町通」になる。
吉田橋、
現在は地下化された首都高速の上に架かっているがかつては“派大岡川”の橋で関内外を分ける川の上にあり外国人居留地への出入りをチェックする関所の役割を負っていた。
この吉田橋、当初は木橋だったがあまりに交通量が多かったためにすぐに痛んでしまいもっと丈夫な橋が検討されていた。
ちょうどその頃、横浜港の築港計画のために様々な調査を行っていたイギリスの土木技士リチャード・ヘンリー・ブラントンに依頼し日本初のトラス構造の鉄橋となった。(残念ながら単純な鉄橋のお初は長崎)
1869(明治2)年10月に鉄橋として生まれ変わった吉田橋は、当時珍しくまた通行料金も徴収されたので人々はこれを鉄と金を重ねて「カネの橋」と呼び、横浜名物の1つとなったそうだ。

(鉄からRCへ)
明治2年に鉄橋として完成した「吉田橋」も10年を越えると痛みがひどくなり架け替えが必要となり鉄筋コンクリートに作り替えられることになった。鉄筋コンクリートの「(新)吉田橋」の完成披露が
1911(明治44)年、11月1日から3日にわたって行われた。
lig_吉田橋近代の風景編002表面 lig_吉田橋近代の風景編004スタンプこのイベントはかなり多くの観光客で賑わい多数の絵葉書も販売された。ちょうどこの頃、日露戦争を契機に大ブームが起こり日本各地の観光施設を始めイベントには「絵葉書」が欠かせないアイテムとなっていた。
因みに絵葉書が登場したのは1900(明治33)年10月のことだ。
さらに伊勢佐木界隈は
1911(明治44)年の12月25日に羽衣線(馬車道〜駿河橋)が開通し、一気に繁華街が拡張する。
ここに当時の絵葉書が一枚ある。
吉田橋三代家族三代の家族が移っている写真絵葉書だ。当時、三代目となった「吉田橋」“渡り初め”に因んで、三代の家族を記念絵葉書にしたものかもしれない。
「三代家族写真」といったスタイルは他の橋でも写された写真葉書が発行されているので、当時の流行だったのかもしれない。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください