No.640 6月12日(木)横浜茶業物語

今回でちょうど640話なので1000話まで360話

諸君、日本茶飲んでいますか?
飲料の近代史は世界史そのものです。国家間の戦争・政争が人々の飲料のし好を変えてきました。中国茶の味を知ってしまった欧州(英国)は、貿易赤字解消のためにアヘンを売り戦争まで起こします。米国独立のエピソードにボストン茶会事件があります。イギリスに高額の茶税を掛けられアメリカンコーヒーの文化が生まれます。
幕末、日本が開港されたニュースが欧米に伝わると、多くの商社が横浜に押し寄せます。
既に日本茶の品質と存在は、長崎を通じて九州のお茶(嬉野茶など)が知られていました。最大の関心を示したのが英国でした。東インド会社は香辛料とお茶を求めてアジアを物色していた真っ最中でした。今日は少し乱暴ですが、横浜茶業史のドラマを紹介しましょう。
幕末、幕府が開港した開港場を通じて日本は一気に国際社会の渦に巻き込まれます。
垂涎の「生糸」「茶」で儲けようとしたら、当時江戸幕府が各国と結んだ通貨設定のおかげで「ぼろ儲け」システムに気がつきます。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

日本は約50万両分=(一両約8万円として400億円)の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。舞台は横浜開港場でした。単純に両替するだけで儲かったのですから日本人の商人もかなり両替に加担します。その中に、横浜が生んだ政商「高島嘉右衛門」もいました。彼はこれで大もうけし、明治維新以降のビジネス資源にします。
話をお茶に戻します。
日本のお茶産業は、生糸に次ぐ重要な輸出商品でした。幕末の幕府財政危機を引き継いだ明治政府の稼ぎ頭として「生糸」も「製茶」も横浜港から開港場の外国人商館を経由して輸出されました。
お茶の大消費地はアメリカでした。英国のお茶の商社も日本で調達したお茶の殆どを米国に再輸出されました。この傾向は幕末期に米国史上最大の内乱南北戦争(1861年〜1865年)が起こり、海外との貿易実務が停滞したことでピークに達します。
そして、内乱の終わった米国が、国際市場で復活し日本に向けても海路を開き直接日本から「お茶」を輸入することになります。
(表1)→調整中
別表でも明らかなように、米国の南北戦争終了に輸出量が激増し太平洋に向かう「横浜港」は、対米向けお茶輸出港として取扱量が激増します。
財政危機を救う「製茶産業」でしたが、輸出が増えても生産地はそのメリットを享受できませんでした。
お茶の製品化には、生茶葉を加工する必要があります。この再製加工は全て外国商社が独占的に行っていました。再製加工工場(=お茶場と呼ばれました)の労働条件は最悪で、女工哀史は生糸だけではなくお茶場にもあてはまりました。
「野毛山の鐘がゴンと鳴りゃガス灯が消える
早く行かなきゃ釜がない」
「慈悲じゃ情けじゃ開けておくれよ火番さん
今日の天保をもらわなきゃ
ナベ・カマ・へっつい皆休む
箸と茶碗がかくれんぼ
飯盛りちゃくしが隠居して
お玉じゃくしが身を投げる」
といった 労働歌も生まれました。

明治に入り、大量の輸出用のお茶生産が求められる中、居留地での欧米商社が引き起こす不当な取引に不満の声が高まります。流通構造は生産者がお茶売込商に販売し、幾つか流通を経て外国人商社が強気、強引なビジネスを展開していました。従来の売り込み商も下流(生産者)への強引な生産要求を行い市場が荒れはじめます。
こんな時に、生産者の中で直接外国人商社に売込む者達が登場します。
さらには、直接米国に向かい直輸出の交渉を行う日本の売込み商も登場します。
1874(明治7)年静岡でお茶を生産する仲間達が横浜の本町三丁目に製茶の売込み商「謙光社」を設立します。創設に関わったのは静岡県榛原郡出身の“原崎茂吉”ら数人で、お茶の生産地としては新参であった静岡という条件も影響したのでしょう。
自力でお茶取引の改善を求める初期の動きでした。しかし中々上手くビジネスは進まず、明治16年頃までは損失を重ねていました。
中興の祖となったのが丸尾文六という人物で、一度為替相場で失敗していましたが、その経験を活かして「謙光社」を株式会社に改組し、近代経営に乗り出します。
丸尾文六の参画により、横浜における「謙光社」は飛躍的な成長を示します。
1885(明治18)年には総扱量百万斤を越え、当時の大手売込商達の仲間入りをします。大谷・中条・岡野・吉永というビッグ4に次ぐ5位になり自他ともに認める大手売込商社となります。
翌年の1886(明治19)年には、総扱量百五十五万斤となり、第四位の吉永仁蔵商店を抜き「謙光社」は第四位に躍り出ます。
lig_歴史資料明治製茶輸出資料1lig_明治製茶輸出資料日本商人

手元にある明治19年に「謙光社」が発行した「横浜港製茶輸出入表」では、外国商社は“居留地住所”のみで記載しているのには驚きました。
商社第一位は居留地178番「スミス・ベーカー商会」(米国)で、いち早くお茶の取引で、日本最大の取引量を誇りました。この「スミス・ベーカー商会」に幕末から明治初年まで勤めていたのが“大谷嘉兵衛”で、その後の横浜製茶業界、財界の重鎮となった人物です。

(茶業界の偉人 原崎 源作)
丸尾文六によって押も押されぬ大店となった「謙光社」を立ち上げたとき創設者の“原崎茂吉”の実家静岡県榛原郡の縁者が彼を頼ってこの「謙光社」に勤めます。
原崎 源作(はらさきげんさく)1858(年安政5)年生まれで16歳でした。お茶の生産地で育った源作は、「謙光社」で勤める前から製茶加工の機械改良に関心があり、特に悲惨な作業の一つだった釜入れし炭火で熱する作業を女子工員が素手で40分位行う行程を楽にできる機械はできないものか考えていました。
改良は失敗を重ねに重ねますがついに原崎式再生釜を発明し明治32年に特許権を取得し、その後の製茶業を大きく変えることになります。
原崎 源作は茶業界にとって偉大なパイオニアですが、横浜にはちょっと残念な結果をもたらした人物でもあります。
生産力と生産品質を飛躍的に向上させた指導者、原崎 源作は一方で横浜にイチイチ運ばず直接清水港からアメリカにお茶を輸出すれば時間もコストもダウンできるではないか!と清水港国際港化に尽力し、国際港を認めさせた人物でもあります。
清水国際港のオープンで、横浜の茶業輸出量は下がり、次第に下火になっていきます。生糸は関東大震災まで横浜港の花形でしたが、製茶の輸出は明治末期から減少の一途をたどります。
静岡県菊川市には 茶業の往事を偲ぶことができる「赤レンガ倉庫」が保全されているとのこと、機会があれば訪問してみたいと思います。

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No.640 6月12日(木)横浜茶業物語」への1件のフィードバック

  1. 石部健太朗

    はじめまして。楽しく拝見させていただきました。

    横浜の居留地で行われたのは「再製」の加工ですね。各茶産地で加工された茶(荒茶)が横浜や神戸にて再製加工が行われた後に、輸出がされました。
    この加工はパンファイアーやバスケットファイアーと呼ばれ、特にパンファイアーは藍や緑青などを使った着色の茶がほとんどでした。

    返信

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