(通算648話)横浜火災海上保険を創った男

(プロローグ)
日本は世界の船舶保険において一位二位を競う“保険大国”です。この保険制度は十字軍遠征時代の冒険貸借から始まった金銭消費貸借制度に原点があります。その後、海洋貿易の契約制度の試行錯誤を繰り返しながら、近代保険制度が確立していきます。
日本では江戸末期に福沢諭吉※により、西欧における保険知識が紹介され、その後、明治初頭から海上保険の研究が行われ「海上請負」と呼ばれる荷主への貨物補償制度の試みが行われるようになりました。
※『西洋旅案内』
実は制度としては朱印船貿易時代にすでに「抛金」(なげかね)という海上保険制度が行われていました。これは前述の「冒険貸借」とほぼ同じ考えしくみの金銭消費貸借制度でした。
明治に入り最初の海上保険会社が1879年(明治12年)に設立されます。「東京海上保険会社」(現在の東京日動)です。
その後大小様々な海上保険会社が創業しますが、合従連衡を繰り返しながら現在につながってます。
1881年(明治14年) 明治生命保険会社(生保関連の草分け)。
1893年(明治26年)に住友海上火災保険(株)・日本海上保険(株)
1918年(大正7年)に大正海上火災保険(株)→三井海上火災保険(株)
1919年(大正8年)に三菱海上火災が設立。

1897年(明治30年)に横浜でも海上保険会社が設立されます。
横浜火災海上保険です。
後の戦時経済下に関西の保険会社と合併し同和火災海上保険となりますが、貿易港横浜を代表する海上保険会社として創業以来各地に支店を出し貿易の潤滑油の役割を担っています。
横浜火災海上保険を偲ぶ形としてとして現存するのが神戸にある毎日新聞ビルです。ここはかつて横浜火災海上保険 神戸支店(1925年竣工、設計:河合浩蔵)でした。
lit_横浜海上保険001横浜火災海上保険(株)本店は、「横濱成功名誉鑑」(1910年 明治43年刊)によれば太田町3丁目50番地となっています。同和火災海上保険(株)『同和火災50年史. 資料集』によれば「横浜火災創業の地(現在の横浜市中区弁天通一丁目付近)」です。
微妙な違いについてはここでは精査しません。
light_横浜火災海上運送借用

この横浜火災海上保険の初代社長は富田鐵之助(とみた てつのすけ)、副社長で二代目社長となったのが土子金四郎(つちこ きんしろう)です。
話は横道に逸れます。社長となった富田鐵之助なる人物もかなり魅惑的な人物のようです。彼の簡単なエピソードを集めるだけでも たっぷり歴史の面白さを楽しむことができそうです。
富田鐵之助
Wikipediaでは
「富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日(1835年12月5日)〜大正5年(1916年)2月27日)は、幕末の仙台藩士・明治期の外交官・実業家。諱は実則。号は鉄畊。日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。」

とありますが、ここに紹介した内容以外が富田を紹介する上で重要な側面だと思います。明治政府の経済政策の台所となる「日本銀行」の設立に深く関わり、初期の重要な金融政策に関わった冨田は総裁になって早々大蔵大臣松方正義に明治22年罷免されます。
以後在野で生きることになります。彼の生き方、日銀時代の数年以外(前後)が面白いのですが、あまり紹介されていないようです。横浜とも横浜火災海上保険以外で繋がっています。

<第一エピソード>
富田 鐵之助は日銀を首! になった二年後の1891年(明治24年)、東京府知事に就任します。
この時に彼が断行した「神奈川県」との大げんか!※ が『神奈川県に属していた「三多摩(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)」を東京府に併合』したことです。これは東京と神奈川の水源戦争でもあり、東京(府)になっていなかったら、多摩川の上流域は神奈川県で、横浜の水源地も道志川・相模川水系に加え多摩川水系も横浜・川崎の水!ということになっていたらその後の都市発展は大きく変わってきたかもしれませんね。東京にとっては三多摩確保が生命線であったことは間違いありません。

※大げんかではなく、政治的思惑で神奈川県から自由党の強かった三多摩を分離したという資料もあり、明治維新以来この三多摩地区の政治的視点からの動きもかなり面白そうです。

<第二エピソード>

じゃあ 富田 鐵之助は神奈川の宿敵!か? というと一方で
(東京府知事就任以前ですが)日本の生糸産業が対米輸出に深く関われるよう尽力しています。この生糸紡績に関しては、知事辞任後 横浜に大いなる貢献をしています。
保土ケ谷、現在の天王町にあった大工場「富士紡績」の設立に関わっていました。
「富士紡績」は戦災で焼失するまで天王町一帯の基幹産業として、地域と深い関わりがありました。
No.434 帷子川物語(2)

(エピローグ)
へろへろとワンタンすするクリスマス
カチカチと義足の歩幅八・一五
ライターの火のポポポポと滝涸るる

オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるほどリズム感のある俳句を残した秋元不死男は戦前戦後を通してアリズムを指向した俳人として活躍します。
大桟橋埠頭ビルに秋元不死男の句碑があります。目立たないので見逃している方も多いかもしれません。

lit_秋元不死男句碑
「北欧の船腹垂るる冬鴎」
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.
秋元不死男は、横浜市元町生まれで彼の作品活動で山手警察署に逮捕、半年後東京拘置所に移され二年間勾留された時代もありました。
俳人 秋元不死男、本名は秋元 不二雄。彼が職場として23年間勤めたのが、
横浜海上火災保険でした。1941年(昭和16年)、治安維持法違反の嫌疑で検挙され会社を辞職。戦後は俳句の世界に生き、1968年句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞しました。

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

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