No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

1989年(平成元年)の今日、横浜市政100周年(横浜開港130年)記念事業の中核となる横浜博覧会開会式が行われました。
この横浜博覧会はみなとみらい21地区の69haを使用して開催され、のべ1,333万人が入場しました。<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

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公式ガイドブック
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当時の横浜駅西口駅前、靴磨きが生業としてありました

この「横浜博YES’89」英称:YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89 は1960年代に構想された「みなとみらい21計画」の“地鎮祭”のような役割を持つお祭りでした。
横浜駅界隈と関内界隈、桜木町駅界隈をつなぐ位置に広がる「三菱重工横浜造船所」跡地が「みなとみらい21」エリアです。
下の写真は77年のみなとみらいに相当するエリアです。

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左上が横浜駅で右下がカップヌードルミュージアム、赤れんが倉庫のある新湊埠頭エリアです。そのさらに下が関内地区で臨海部の造船所がエリアを分断しているのが良くわかります。ここを80年代に地ならしと埋め立てを行い90年代に街を作る計画が「みなとみらい21計画」です。
いわばその鍬入れ式を市政100周年というタイミングに博覧会というかたちで実施しよう!ということになった訳です。
関東大震災まで首都圏で光り輝いていた「横浜界隈」は、その後戦災、米軍接収の苦難の中、失われた半世紀の時を過ごします。本腰で横浜のまちづくりに取り組み始めたのが1960年代後半、飛鳥田市長時代の「六大事業」構想です。当時、東京湾岸は工場地帯がベルトのように臨海部を占有していましたが、可能な限り臨海部を職住機能のある街にする計画が湾岸各都市で計画されます。千葉は幕張エリア計画、東京が臨海副都心計画、そして横浜がみなとみらい21計画でした。熾烈な都市間競争の始まりです。

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1988年ほぼ埋め立て完了横浜博会場準備中
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現在のみなとみらいエリア

この「横浜博YES’89」はバブル期に開催されました。
地鎮祭は行ったものの、バブル崩壊で90年代「みなとみらい21計画」は苦難の道を歩みます。
また、単に新しい街ができるだけでは無く、周辺の商業地域との調整にも様々な難題が起ります。横浜駅東西の商業戦争、野毛地区の東急線廃止問題、伊勢佐木の地盤沈下等々を抱えながら「横浜博YES’89」が挙行されました。
ただ、「横浜博YES’89」にはここで紹介したように「みなとみらい21」というあたらしい街ができあがる地鎮祭(前夜祭)的な役割がありましたから希望が見えました。
事実動員があったりもしましたが、このみなとみらいに蒔かれた種や樹々はなんとか現在まで枝葉を広げ形になりつつあります。
さあこの点で「開港開国博Y+150」はその先に何を見ようとしたのでしょうか?

「みなとみらい21計画」の評価、是非は様々な議論が行われています。私も別の機会にまとめてみたいテーマの一つですので後日に譲ります。

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ガイドブック他報告書各種

「横浜博YES’89」の開催内容のマップです。ゴンドラはあるし専用鉄道も敷かれます。現在みなとみらいのシンボルとなっている観覧車もこのときにできたものです(後日現在地に移設)。桜木町駅前の動く歩道、日本丸、美術館もこの時期に設置されたものです。思い出のある方も多いと思います。

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会場マップ

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