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DOYA!ことぶきの町は。

横浜には日本三大「寄せ場」の一つがある、
あったと言った方が正確かもしれない。

話では知っているが『この地』の歴史と現在を知る人はごく少数だ。特にある時代を刷り込まれた世代には近づきがたい“影”があった。
横浜市中区寿町とその周辺は、東京・三谷、大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)と並ぶ日本を支えてきた経済の影のエリアとなったのが「寄せ場」である。
「寄せ場」とは日雇労働者の自由労働市場、青空市場(野外での職業あっせんを行う空間)主に港湾・建設業の職業あっせんする場所のことである。※1
「寄せ場」は別名ドヤ街と呼ばれている。
lig_参考図書※1 『横浜・寿町と外国人』山本薫子 福村出版 2008(ドヤ街)
ドヤ街のドヤは“宿(やど)”を逆さにした隠語から始まった簡易宿泊所の集中エリアを指す。宿の街ではあるが、人が住むような場所ではないと自嘲的に呼ばれ、スラム街と同義語となっている。
横浜市中区寿町にある“ドヤ街”の歴史と現状を調べてみた。
現在、寿町一帯の簡易宿泊所集中エリアには約6,500人が暮らしているが住民登録者数は約3,500人に過ぎない。
日本三大「寄せ場」の中で「寿ドヤ」の特徴は、最も狭いドヤ街エリアであること、簡易宿泊所の“門限”が無いことなどが挙げられる。ピーク時には8,000人以上の“自由労働者”がいた。
東京山谷、大阪釜ヶ崎の“寄せ場”形成には戦前からの地勢的文脈があるが、横浜寿エリアは、突然作られた横浜開港場のように 戦後の空白から誕生した。
また、家族を形成する者も多く、子供たちや女性が多かったことも寿ドヤの特徴であったが、現在は大きくしかも急速に「全ての“寄せ場”」の状況が変化している。ここで簡単に寿ドヤの歴史を追ってみたい。
寄せ場と呼ばれる「寿エリア」は1955年(昭和30年)代以降に形成された。
明治初期に吉田新田「一ツ目沼」と呼ばれた遊水池(沼地)が埋め立てられ、市街地を形成し生糸や材木などの市が並び賑わった。
lig_一つ目沼「寿町」「扇町」「翁町」「松影町」「不老町」「蓬莱町」「万代町」等謡曲の曲名が町名となり「埋地7ヶ町」が誕生する。
lig_S3寿野毛
lig_PA180027.jpg

この「埋地7ヶ町」が激変したのは横浜大空襲だった。
この空襲で甚大な被害が生じたこのエリアを終戦後米軍が接収し住民を排除し「グラウンド、石炭貯蔵所、キャステル・コート(士官宿舎)等」が設営された。
lig_占領時マップ1949
接収は1945年(昭和20年)9月29日に始まり1951年(昭和26年)から徐々に返還されて1958年(昭和33年)に完全返還となったが、転居した“元住民”は殆ど戻ることなく解除後の境界や地権等が不明確な場所に無秩序な建築物が建ち始めた。
さらに、野毛の職業安定所の寿町への移転を契機に戦後の混乱時にスラム化していた“桜木町・野毛”のスラムクリアランスのはけ口として「埋地7ヶ町」が「寄せ場」に変身する。
このエリアが戦後高度成長の横浜経済の負の部分を全て背負うことになる。
アルコール依存症、薬物依存症、結核、糖尿病、肝臓機能障害などの生活習慣病を患っている人が増大、スラム化に拍車がかかる。
1970年代に入り、高度成長に陰りが出てくるに伴い、ここに寄り集まった“自由労働者”には一足早く「高齢化・生活弱者化」が訪れる。
1983年(昭和58年)には横浜浮浪者襲撃殺人事件が発生する。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”現在
自立できないまま6,500人前後が独居しその85パーセントが生活保護を受け、半数が60歳以上の高齢者という「労働者の街」から「緊急福祉を必要とする街」に変貌してしまった。この街「横浜ドヤ寿エリア」には日本社会における深刻な「社会課題」が凝縮されている。1970年代から支援活動が継続して行われ現在、寿町内では30以上の地域団体がそれぞれの特色を活かしてホームレス自立支援を行っていることが救いだが、ひとときの猶予も許されない状況であることは間違いない。
ここには弱者としての在日外国人高齢者が多く、地域が乗越えていかなければならない重い課題となっている。NPO法人さなぎ達
http://www.sanagitachi.com
ことぶき共同診療所
http://kyoudouclinic.com
コトラボ
http://koto-lab.com/KOTOLAB_-_projects.html
コトブキ案内所
http://koto-buki.info/about/

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