私が追いかけているテーマの一つが帝都東京と港都横浜の都市間競争です。
前編で港造り(築港)の視点から東京と横浜の築港競争の歴史を追ってみました。
前回をレビューします。
横浜港は開港以来諸事情で30年間手つかずの状態が続きます。
明治時代に入り、横濱築港計画と同時に帝都東京港の開設計画も持ち上がります。
開港時、徳川幕府が江戸解放※を嫌ったために役割が巡ってきた「横浜」開港の意味合いが明治以降無くなってきたからです。
※単に江戸回避政策だけではなく、横浜が港に適していたことも当時ペリーの測量等で認識されていたので、良港という視点で横浜開港の要因の一つとして挙げることができるでしょう。
明治維新早々から帝都開港(築港)論が浮上しますが様々な条件が重なり、横濱築港・大さん橋造営が実現します。
(神戸・大阪)
横浜港は神戸港と比較するには最適です。神戸は横浜同様、大阪とのライバル関係にあります。
簡単に神戸港と横浜港を大阪・東京との関係で比較してみましょう。
(距離)
○神戸・大阪間の距離は?
直線で28km離れています。鉄道距離では33.1kmです。
道路アクセスは33kmです。
○横浜・東京間の距離は?
直線で27km、鉄道で28.8km、
神戸・大阪間と殆ど変わりません。
道路アクセスは東京・横浜間36kmです。
では現在のアクセスコストは?単純計算で
東京ー横浜間は25分で、運賃は450円です。
大阪ー神戸間は25分で、運賃は390円です。(官民共同か国営か)
神戸港の桟橋建設計画は民間資本を導入して1882年(明治15年)「神戸桟橋会社」を軸に進められます。
一方で横浜の横浜貿易商達は「横浜桟橋株式会社」の設立を1886年(明治19年)企画し神奈川県知事宛に設立許可を請願します。
神奈川県(沖守固知事)はこの案を【内務省】に上申しますが却下され、
逆に独自の【内務省案】を提示されたために紛糾し棚上げになってしまいます。
そこに、
【外務省】【大蔵省】【内務省】さらには【逓信省】が横浜港築計画に参入し地元ををも巻き込み(5つ巴?)事態が混迷・膠着します。
横浜港の果たす役割が重要であったことが背景にありますが、神戸との大きな違いは横浜港の貿易量の多さと<帝都東京の存在>があったからです。大阪港と神戸港の築港計画は横浜のような大きな軋轢は無く進行しますが横浜以上に築港の苦労がありました。
少し寄り道になりますが明治・大正期の大阪築港史を眺めてみましょう。
明治維新早々に大阪港の改修計画を手がけたのは
東京港の改修を計画したオランダ人技師G.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケの二人です。
本来全国の主力港の築港計画主導権は【内務省】にあり、主要な港湾計画は【内務省】によって進められました。
ところが、東京でも横浜でも彼ら(オランダ人技術者)が示した計画は周到でしたが大幅に予算オーバーで頓挫しました。
再度大阪築港計画のキッカケとなったのが
1885年(明治18年)有史以来とも言われる淀川大洪水でした。
被災人口は276,049人、八百八橋といわれた大阪の橋30余橋が次々に落ち、市内の交通は完全にマヒし大阪は機能不全に陥ります。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/old/flood/bs004.html
治水を含め港湾計画の必要性が官民から持ち上がります。
1890年(明治23年)大阪の経済界は独自にデ・レーケらと天保山エリアの民間ベース築港計画を調査・立案します。
1894年(明治27年)大阪市によって築港計画が策定。
1897年(明治30年)大阪市主導の「大阪港第1次修築工事」の起工式。
1902年(明治35年)境川運河完成。
1903年(明治36年)大阪築港大桟橋が完成し、
公営電気鉄道では日本初の「花園橋〜築港」間に大阪市電築港線が開通します。
大阪は、民間と大阪市主導で構築計画が実施されていきました。
※明治期における全国の築港計画に果たしたオランダ人技術者の役割は大きいのですが、
その後の関係からか、英国の技術者が多く名を残しています。(神戸港)
横浜と似た開港事情を持つ神戸港ですが、築港に関しては技術的に条件が揃わず、神戸港整備は困難を極めます。
神戸港は水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」と呼ばれています。反面、明治初期そこに港湾機能を整備する過程で多大な犠牲と努力が必要でした。
特に、神戸を母港とした川崎財閥(松方コンツェルン)の築港への情熱が現在の神戸を築いたといっても過言ではないでしょう。
また、樟脳、砂糖貿易で財を成した「鈴木商店」(日商岩井、双日のルーツ)の存在も、神戸経済の牽引力となりました。
前述の通り神戸港の桟橋建設計画は民間資本を導入して「神戸桟橋会社」を軸に進められます。この神戸桟橋会社設立には五代・鴻池・住友・藤田らが中心になって設立します。
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-4.html
(産業構造の変化)
横浜港の港湾機能を拡充するために「新港ふ頭」計画が浮上します。
この新しい埠頭計画にも様々なプランが提出されますが、基本【大蔵省】税関のプランを軸に造築されていきます。
「新港ふ頭」は保税倉庫として「万国橋」で関内を結ばれました。因みに「万国橋」は【大蔵省】が作った橋です。
1905年(明治38年)12月28日に第一期の埋立が完成し、
1917年(大正6年)11月に第二期新港埠頭築港工事が完成します。
<新港埠頭も幾つかのプランがありました。上記図は横浜税関長案だったそうです>
大正時代とはどんな時代だったのでしょうか?
1912年(明治45年/大正元年)7月30日〜1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までが大正時代です。
この15年は国内外波乱含みの時代でした。
憲法制定後四半世紀がたち“大正デモクラシー”の時代、戦前議会制民主主義が最も安定していた時期ともいわれました。
経済的には、第一次世界大戦による好景気、その後到来する過剰投資による経済破綻、関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入の後に景気回復の見通しが全く立たないまま昭和を迎えます。
横濱経済は浮き沈みの激しい「生糸輸出」から加工貿易による「工業化」への移行期にあたります。
明治末期に起こった未曾有の生糸不況は帝国蚕糸(株)を設立し、在庫調整機能を持たせることによってかろうじて乗り切りますが、日本の産業構造は原材料の輸出を元に製品を輸入する構造から、原材料を輸入し加工し輸出する加工貿易にシフトし始めていました。
(京浜工業地帯)
横濱と東京の間に広がる工業地帯を「京浜工業地帯」と呼びます。明治後期から大正にかけて、この京浜地帯に製造業が進出しはじめます。
1891年(明治24年)横濱船渠→三菱造船
1896年(明治29年)横濱電線製造→古河電工
1908年(明治41年)東京電気→東芝
1909年(明治42年)日本蓄音機商会→日本コロンビア
1912年(大正元年)日本鋼管→JFEスチール
1914年(大正3年)鈴木商店→味の素
1916年(大正5年)浅野造船所→日本鋼管→JFEスチール)
1916年(大正5年)旭硝子
1922年(大正11年)小倉石油→日石
1923年(大正12年)富士電機
1926年(大正15年)日清製粉
1926年(大正15年)麒麟麦酒→キリンビール
港湾の軸が次第に東京よりにシフトしていきます。
一方で外国の製造メーカーも横浜に進出します。
1925年(大正14年)2月には日本フォードが横浜市緑町に本社を置き、子安(大阪にも)に組み立て工場を開設し年間1万台体制を築きます。GMもこれにつづき日本進出しノックダウン方式で日本進出を図ります。
対する日本も横浜に1933年(昭和8年)自動車製造(株)を作りこの会社を母体として日産自動車が誕生し1938年(昭和13年)にはフォードを追い抜き年間2万台製産ラインにまで成長します
(生糸独占港)
産業の工業化が進む中、浮き沈みはあるものの生糸関係の輸出はほぼ横浜が独占していました。この独占体制が、横浜港の基盤でした。
ここに関東大震災が起こり 横浜と東京が未曾有の被害を受けます。
横濱市および横浜港最大の危機が訪れます。
生糸関係の貿易は神戸に解放され独占状態ではなくなり
復興計画は帝都中心で組まれていきます。
横浜財界、震災後に赴任した市長は横浜復興のために努力し、復興とダメージとなる東京港開港をかろうじて差止めますが、
1941年(昭和16年)に東京港が国際貿易港に格上げされ、戦争へと歴史の針は進みます。
皮肉にも、この年羽田沖に「羽田飛行場」が開場し、戦後の航空時代の先駆けとなります。
港都横浜は 消滅こそしませんでしたが、多くの障害を乗越えて現在があります。
ここでは戦前の横浜港に関して一側面を紹介しました。
(あとがき)
シンプルな表現を目指しましたが、逆に粗雑になってしまいました。特に後半は史実を端折りました。
ざくっと流れをつかんでいただければ幸いです。
帝都東京と港横浜は鉄道史、道路史からも面白いテーマです。
戦後かなり長い間国鉄は「桜木町」以降の延長を行いません。横浜駅西口の開発も戦後かなり時間が経ってからです。
海から横浜港湾岸を眺めると、戦後関内から高島にそして東神奈川へと都市開発が広がってきました。同時に東京もお台場周辺から隅田川河口に沿って新しいまちづくりが始まっています。
この先、少子高齢化社会に適応したスマートな街として生き残っていくのはどのあたりなんでしょうか?
震災後 昭和初期の横浜に関しては 横浜独特の「ハマのモダニズム」時代と言われています。
いずれこの時代の空気、どんな時代だたのか?紹介していきたいと資料を漁っています。
横浜消滅(前編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5489