最近関心のあるテーマが
帝都東京と港都横浜の都市間競争です。どでかいテーマなので、最早くじけそうです。
以前「横浜大さん橋」の歩みを通して横浜港の歴史を簡単に紹介しました。
今日は、港造り(築港)の視点から東京と横浜の築港競争の歴史を追ってみます。
概ね1920年頃までの<震災前>をまとめてみました。
歴史にもしかしたらは無いのですが、大都市横浜がもしかしたら無かったかもしれない転機が「横浜築港計画」に隠されています。
※前編は 明治時代の築港計画初期(第一段階)
(金がない)
日本が欧米列強の開港要求に応じ、1859年(安政6年)に横浜と長崎、函館の三港が開港します。米国を始め開国を求めた諸外国は最も江戸に近かった「横浜(神奈川湊)」に注目します。
一方、長崎は江戸時代からの国際港でしたが京都・江戸にも遠く、函館は露西亜以外は殆ど関心のない場所でした。
当然開港場としての役割が「横浜(神奈川湊)」に集中してきます。
徳川幕府はたった三ヶ月で開港場の整備を成し遂げますが、国家財政は破綻寸前で新政府に交代することになります。明治政府も資金不足で港湾設備どころではない状態がしばらく続きます。
※最終的に5港開港します。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港した神戸港は横浜と似た経緯で兵庫津ではなく、神戸に開港場を作ります。
新潟港は1869年1月1日(明治元年11月19日)に開港します。(政情不安)
徳川幕府は現代流に表現すれば“小さな政府”“地方分権”でしたが、疲弊していた幕府財政に加え、経済危機は全国の諸藩まで波及していました。
度重なる財政失敗で幕府崩壊は時間の問題でした。
徳川幕府は“やめた!”と大政奉還を行います。
明治になってすぐに”版籍奉還”が行われ全国の諸藩は領地を返上し
たたみかけるように革命的制度変更の廃藩置県が実施されます。
歴史教科書では一行でしかない「廃藩置県」ですが数百年継続した武士の統治システム、そう簡単に解体できる制度改革ではありません。ところがすんなりいってしまいます。
要因は複数ありますが、多くの藩が、幕末からの財政難に喘ぎ苦しんでいた要因が最も大きいといえるでしょう。
明治政府は江戸時代の徳政令のように、財政破綻の責任は問わないとしたことですんなり廃藩置県が行われます。(一部軋轢は起こりますが)
中央集権を目指す明治政府は第一段階をクリアしますが
租税制度も未熟な状態でしかも藩閥の政争、リストラされた武士の不満の鬱積で政情不安が憲法制定あたりまで続きます。
今にして考えればよくぞ政権が崩壊しなかったな!と思う程の政変ラッシュが明治20年代まで起こりました。(放置された港)
1859年に一応開港した横浜港ですが、開港以来初めて横浜港修築工事が始まる1889年(明治22年)まで30年間、殆ど放置されていました。
小さな船着き場程度の桟橋が二本突き出ている程度で、図版にもあるように小舟で沖の大型船に向かう「横浜港」では貿易もままなりません。
<1871年暮(明治4年11月)に横浜を発つ岩倉使節団>
「横浜港」は単に資金面や政情不安だけで放置されていた訳ではありません。横浜を代表とする五つの港は、不平等条約の下で関税自主権をはじめ多くの治外法権を抱えていたため、本格的なテコ入れができなかったことも背景として理解しておく必要があります。(横浜経済人の悲鳴)
とはいえ、外国との貿易量は日に日に増加します。
1881年(明治14年)3月23日、横浜経済人が一堂に集まる横浜商法会議所の総会で港整備への不満が一気に爆発します。
「横浜波止場建築ノ建議」を全会一致で決議、
とにかく(大型船の)接岸埠頭を早急に作ってほしい!
という要望書を国に提出します。
文面はかなり過激です。
<商法会議所が提出した建議の一部>
この決議のポイントは、官民共同経営で「官」の出費を減らすから動いてほしいという画期的なものでした。横浜経済人達は、貿易港の管理者で最も埠頭整備を実感していた「横浜税関」にも働きかけとにかく急いでほしいと切実な要求をぶつけます。
(二転三転すったもんだ)
明治政府は近代化を図るために、高額で多くの(お雇い外国人)を雇います。様々な領域に欧米人のノウハウを導入しますが、圧倒的に工部省採用の外国人技術者が多く、当時明治政府が富国工業化に心血を注いでいたか解ります。
ところが、現代まで後遺症となってしまう異なる“モジュール”導入が行われ現場がかなり混乱したことも事実です。
法整備、電力の周波数、鉄道のゲージ、電話交換機…他。
築港に関しては
オランダ人技術者とイギリス人技術者が活躍しますが、この二国決して良好な関係ではないことと、日本国内の政治闘争が築港計画に大きく影響していくことになります。
※築港の技術支援になぜオランダが選ばれたかと言えば、1871年(明治4年)に欧米各国を回り精力的に国外分析を行った「岩倉使節団」の大久保利通がオランダで、築港の重要性を実感し、運河都市でもあった東京の水運整備をオランダ人技術者に依頼したからです。
※英国人技術者は、土木系のインフラ整備を中心に後の工部省が積極的導入を図りました。
冒頭の
横浜商法会議所がしびれを切らすには理由がありました。
横浜・品川間の鉄道敷設は1872年(明治5年)に成功し、東京と横浜の時間が短縮されます。人は盛んに東京・横浜を行き来するようになり、
ニーズに応えるために横浜港の築港計画立案の作業が進められます。
時の大蔵卿大隈重信は太政大臣(総理大臣的存在)三条実美に
とにかく横浜港はこのままではだめだ。大型船が停泊できる“埠頭”の新設を訴えますが、金が掛かりすぎる!ということで却下されてしまいます。
1874年(明治7年)
【内務省】はオランダ人ファン・ドールンに計画書の提出を命じます。
1875年(明治8年)
【工部省】はイギリス人ブラントンに築港計画立案を依頼します。
これらの2案は予算の関係もあり大まかな考え方を示す程度のプランに留まります。
新政府になって10年たっても「みなと」は案だけあって手つかずで
1881年(明治14年)怒りの決議後、内務省が動きます。
1886年(明治19年)
【内務省】はオランダ人雇工師デ・リーケ(Johannes de Rijke)にドライドックを含めた場所の本格的な選定依頼を行い
リーケからはドライドック候補地は「神奈川(湊)エリア」としそこを囲むような大きい防波堤を設ける提案が行われます。
一方【神奈川県】は、
1886年(明治19年)の同じ年
築港の調査と計画をイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)に依頼します。
近代水道の父である彼は、この年水道工事も佳境に入り、現場の信頼も高まっていた時期にあたります。水道工事と平行して調査も行い
パーマーは1887年(明治20年)に「横浜築港計画書」を県に提出します。
(さあどっちだ)
両者から「横浜築港計画報書」が提出され、どちらかを選択することになりますが、政界を巻き込んだ大騒動に進展します。
大久保さんお声掛かりの【内務省】で主流だったオランダ人技術者からはパーマー案への激しい批判が起こります。
【内務省】は改めてデ・リーケに再設計を命じます。内務省はどうしてもデ・リーケ案で行きたかったのでしょう、パーマーの欠点を指摘しその部分を補うプランをデ・リーケに求めたとしか考えられません。
そして、パーマー案と再構築されたデ・リーケ案が吟味・審査されますが、【内務省】の日本人技術者2名とオランダ人技術者ムルドルによる審査は一致してデ・リーケ案を推します。特に日本人技術者陣はパーマー案のメンテナンスの難しさに着目します。もし防波堤が壊れた時にパーマー案は修復が難しいという点の指摘が残されています。この指摘が後に時限爆弾のように爆発し、内閣総辞職にまでなってしまいます。
直ちに【内務省】のトップ内務卿の山県有朋は当時の黒田清隆首相にデ・リーケ案を元に請議を行います。普通なら、ここまでの手順を踏んで【内務省】デ・リーケ案となるはずでした。
パーマー案は「不経済にして実施が甚だ困難」であり
デ・リーケ案は「経済的に理に叶っていて横浜港の地勢にも適切だ!」まで付記されてしまいます。
ここに新しいカードが登場します。
【外務省】のトップ、外務卿の大隈重信が「まった!」をかけます。
デ・リーケ案ではなくパーマー案を採用して欲しい。と首相に談判します。二ヶ月の議論が行われ、黒田首相は「パーマー案採用」に傾き、【内務省】案を引っくり返します。
(外交手腕)
【外務省】のトップ、外務卿の大隈重信が畑違いの築港に口を挟んできた背景には、冒頭紹介した国際港の関税自主権、ひいては不平等条約の撤廃のための外交カードとして「横浜築港」を使いたかったからです。
単に利権争いなんかではなく、横浜開港場で貿易を一切仕切る外国人商社の活動をしっかり捕捉し課税したい。これは大隈重信と犬猿の仲だった当時の大蔵卿松方正義も共通認識でした。さらに黒田内閣の最大ミッションは「不平等条約」の撤廃ということもあり、米国の「下関戦争基金」も視野に入れ、英国との交渉カードにしたと大隈が考えたとしてもおかしくありません。
単なる政敵闘争で決まりかけていた山形有朋のメンツまでつぶして引っくり返しには、相当の理念がないと難しかったのではないでしょうか。
※「不平等条約と港湾行政」法学会雑誌2006年7月号 稲吉 晃
(東京へ)
開港し政権が変わったことで「横浜港」の役割は終わったと考える人たちが出てきます。帝都(首都)である東京に本格的な貿易港を作るべきだ。その方が合理的だと主張するキーマンが続々登場します。
三井の大番頭「益田孝」、明治の都市計画第一人者「直木倫太郎」、澁澤栄一
言論界では自由貿易を主張する田口 卯吉(たぐち うきち)他が帝都開港の論陣をはります。
前段でテーマとなった
築港に関する【内務省】のオランダ人技術者は、
江戸から近代都市への改造をミッションに来日していました。
当然、東京に機能を集中する提案には賛成します。
明治に入って東京府制が布かれ、
東京湾最大の拠点は東京、だったら最大港は
「東京でしょう」という当然の見解を前面に出します。
東京府知事 芳川顕正は
「横濱ハ埋リ強ク良港ニ非ズ。」
三井の益田は
「今日ノ商売上ヨリ論ズレバ、寧ロ東京ヲ選ムニ如カズ。」
と東京開港論を展開します。
1875年(明治8年)約1,900万円という超大型予算が東京築港のために認められます。時の内務卿 (後に横濱築港で大隈にメンツをつぶされる)山県有朋はゴーサインを出します。
※明治の1円は現在の2万円に相当するそうです。
ここが、横濱最初で最大のピンチとなります。
ここで東京開港、品川国際港が実現していたら、
今の横濱港の隆盛は存在していません。
ではなぜ、東京築港計画は実現しなかったのでしょうか?
資料を探る限りでは、横濱側は官民あげての激しい反対運動の成果とされていますが、東京側のニュアンスは政治的敗北と認識していたようです。
また、計画はあれども 予算不足だったことも横濱にとっては幸いしています。
当時日本の港湾整備に積極的だった政治家は大久保利通でした。
彼は 最初、東北の築港を手がけます。
「野蒜築港」(のびるちくこう)と呼ばれる港湾建造事業は仙台湾(石巻湾)に面する桃生郡(現・東松島市)を中心に行なわれました。東北の再生こそが維新以降の不平武士の雇用創出であり、東北物流の要と位置づけます。
この東北計画は災害等で未完成のまま頓挫します。
明治三大築港の一つですが、他の三国港(福井)、三角港(熊本)が成功しここ「野蒜」は挫折してしまいます。
この挫折は後の横濱、東京築港計画が慎重になった理由の一つとなります。
1894年(明治27年)大さん橋が完成します。
その後、横に新しい埠頭「新港埠頭」が整備され、横濱は名実共に日本の表玄関となっていきます。
(東京開港)
明治時代は横浜港が経済の中心でしたが、
田口卯吉は経済の視点から「東京開港論」を展開します。
当時は横浜経済中心に日本経済が回っていたこともあり、主論になりませんが、彼の主張が次第に時代の変化とともに東京開港へ傾いていきます。
そして「関東大震災」をキッカケに 横浜は復興から取り残され完全に日本の軸が「東京」に移り始めるのです。
東京と横浜の都市間競争、江戸のあだ花として開化した横浜が明治末期あたりから「東京」と競争を始めます。東京・横浜都市間競争、これが私の2014年のテーマです。
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点(後編につづく)