No.53 2月22日 アーティストツーリング

明治の画壇を牽引した黒田清輝は1902年(明治35年)の今日、東京から横浜まで観梅を兼ねてツーリングに友人七人と出かけました。
全員30代から40代の当時なら中年(ちょいわるおやじ)軍団だったかもしれません。

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本文とは直接無関係ですが明治からサイクリングは人気だったようです

黒田 清輝は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家で薩摩藩士黒田清兼の子として生まれました。
通称は黒田新太郎と呼ばれていました。
「くろだせいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」です。
築地英学校から東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏します。
当初は法律を学ぶことを目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い子供の頃学んだ絵画への思いが起ち、1886年に画家に転向することを決意します。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた日本洋画界の巨星です。

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代表作

黒田の日記には下記の通り書かれています。
二月二十二日 土
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
戦前は杉田は梅の名所でした。自転車で観梅ツーリングなんて
なんてしゃれている嗜みでしょう。

ここに登場する8人とは誰だろう?調べました。


●久米桂一郎(1866〜1934)佐賀出身、洋画家36歳。
http://www.kume-museum.com/corner_kei.html
佐野昭(1866〜1955)江戸出身、彫刻家36歳。
菊池鋳太郎(1859〜1944)江戸出身、彫刻家43歳。
小代為重(1860〜1951)佐賀出身洋画家42歳。
中丸蓮一か?東京出身
小林万吾(1870〜1947)讃岐出身、洋画家32歳。
合田清(1862〜1938)江戸出身、版画家40歳。
黒田清輝(1866〜1924年)鹿児島出身、洋画家36歳。

黒田、久米、佐野は同年代で最年長は菊池鋳太郎の43歳です。
このツーリング計画は事前に計画され、その予行練習もおこないました。
明治期は、自動車もほとんど普及していない時代ですから、最先端の移動手段でした。彼らだけではなく、ツーリングブームだったようで、横浜の自転車店も最先端ショップとして繁盛したようです。
(白馬会創立)
このツーリングに参加したメンバーの多くが黒田清輝を中心に発足した従来の画壇に一石を投じようと集まった洋画団体「白馬会」同志でした。
1911年(明治44年)3月、白馬会は、所期の目的を達したとして解散しました。

実は彼らは 事前にちょっとリハーサルをしていました。
二月十六日 日
久米 合田 佐野 中丸 伊藤の五人と自轉車にて雜司ケ谷邊ヨリ飛鳥山へ出田畑根岸へ廻る
二月十七日 月
自轉車修繕の爲合田同道三田四國町へ行 午後二時より文部省ニ於て會議
二月十九日 水
夕刻押川氏 鈴木貫一郎氏を訪ふ 夜自轉車にて三河臺町小代方まで行く
二月二十一日 金
始めて自轉車にて學校へ行 歸路山口勝氏 佛公使館 Andre 氏夫妻ニ逢ふ

もう一つ
 偶然の一致ですが2月22日にもう一つ 自転車に関する偉業が横浜から始まりました。

1902年(明治35)2月22日
日本人初の自転車世界旅行を「中村春吉」が横浜港を出発します。
この時期の自転車は既に現代の自転車とあまり変わっていません。
タイヤも空気入りのセーフティー型が使用されました。
1903年(明治36年)5月に帰国します。
この偉業は 本にもなっていますので どこかで読んでみようか?
と思っています。

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ということは 横浜で撮影?

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