横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1873年(明治6年)の今日
ジョン・A・ビンガム
(John Armor Bingham、1815年〜1900年)は駐日公使として夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマEmma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)改題
●1964年(昭和39年)の今日
「市内遊覧バスの見学コースに「港の見える丘公園」を加え、「八聖殿」をはずす」
「港の見える丘公園」は1962年(昭和37年)にオープンしました。
観光地としては大先輩だった「八聖殿」に取って代わられてしまいました。
「八聖殿」も悪くありませんよ。
隣接する展望台からの眺めも良いです。
でもちょっと ハレ!さが無いかな。
※「八聖殿」ブログ
https://www.sites.google.com/view/hasseiden
「八聖殿」案内
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/
●1925年(大正14年)の今日
作家武田泰淳の妻であり随筆家の武田 百合子(たけだ ゆりこ)が横浜市で代々の富豪、鈴木家の三女百合子として生まれます。
1943年(昭和18年)
横浜第二高等女学校(現・神奈川県立横浜立野高等学校)を卒業し在学中に同級生たちと同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿するあたりから分筆への才能を見せ始めます。
1947年(昭和22年)の農地改革で没落し、職を転々とするようになります。この頃、同人誌「世代の会」に参加し、遠藤麟一郎、矢牧一宏、小川徹、吉行淳之介、中村真一郎、八木柊一郎、中村稔、いいだもも等と親交を持ち生涯続きました。
神田のバルザックとよばれた森谷均の経営していた喫茶店兼酒場「ランボオ」の女給となり、そこで武田泰淳と出会います。
※横浜生まれの 文筆家
●1923年(大正12年)の今日
9月1日11時58分32秒に起った関東大震災の復興に携わるために横浜市都市計画局長として、内務省の勅任技師「牧彦七」が招請され着任しました。
実は、震災から間もない9月6日に、市区改正局長から初代横浜市都市計画局長となった阪田貞明が病死しします。横浜市は政府の復興担当となった後藤内相に相談しに内務省土木技師牧彦七を横浜市に招きます。
後藤からの指示は「理想的な計画を立てることにベストを尽くせばよろしい」だったそうです。
震災で基本的な「地図」を失っていた状況下、牧彦七はまず2人の技師とともに市の内外を視察し現状把握に努めます。
また、市に関する資料を神奈川県、東京都等から収集し、復興案に必要なデータを集めます。
陸軍測地測量部の迅速地図が牧の手元に届いたのが10月10日頃だったそうです。
如何に厳しい状況だったかがわかります。
なんとか督促されながらも11月11日になってようやく帝都復興院に横浜市復興計画
案を提出します。
道路橋梁河川等土木費2億5千万円、横浜港改修9千万円、電灯会社買収5千万円、官庁再建5千万円、永代借地県買収1,500万円などを含む総予算5億1千万円規模、東京都の3分の1程度の事業計画でした。
彼のプランの骨子は
現在の関内と横浜駅の中間にあたる、伊勢町あたりに中央公園を造成しそれを囲んで官公庁と会社銀行が並ぶ新都心を形成するというものでした。
そこから各地区の公園や駅を幅員50〜60mの「逍遙道路」で結び、中央停車場(新しい横浜駅)の移動を含む鉄道網の大幅改編も含まれていました。
しかし、地元の意向は都心移動に強い抵抗を示します。
結局 牧彦七の目指した復興案は骨抜きになり 実現することはありませんでした。
11月20日付けで牧彦七は、内務省に引き上げ
1924年(大正13年)に東京都土木局長となり横浜を去っていました。
その後 昭和30年代まで日本最大の「港都」は「帝都」との都市間競争に破れていくことになります。
※牧 彦七(まき ひこしち、1873年〜1950年)
日本の道路技術者。都市計画家。
1873年(明治6年)大分県生まれ。
1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
卒業後台湾の台北県、台南県の技師として赴任。総督府民政長官後藤新平の下で土木課長として道路建設、都市改良、河川改修など工事を担当、廃県に伴い1901年退官。
1902年(明治35年)埼玉県技師となり土木課長就任。
その後秋田県に異動。
この時期
耕地整理に関して用水路の設計に新しい方法を求めるため、東北大学農学部に通い研究、県在職中に学位論文を起草。
1914年(大正3年)内務省に移籍。
内務省では、道路事務を担当、道路法、道路構造令、街路構造令などの制定に尽力。
1915年(大正4年)明治神宮造営局技師に就任。
1919年(大正8年)内務省土木局技師兼鉄道技師。
街路構造令を起草、橋詰広場や遊歩道施設規程等を盛込む。
1921年(大正10年)欧米各国へ出張。
1922年(大正11年)帰国。
内務省土木試験所初代所長に就任。「簡易舗装」などを考案。
1923年(大正12年)東京帝国大学工学部講師〜1930年まで講義を担当。
9月横浜市都市計画局長就任
11月内務省
1924年(大正13年)東京都土木局長就任
※その後の 牧 彦七 氏に関心が出てきました。追って調べてみたいと思います。