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No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ

福沢諭吉は慶応義塾創立者で多くの言論活動を行った思想家ですが、ここでは家庭での福沢諭吉についてご紹介しましょう。
1888年(明治21年)の今日、 福沢諭吉(53歳)は、家族と約束していた横浜ワンデーマーチを、五人娘のうち三人と実行します。

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福沢は筆まめでした。
確認されているだけでも2,600以上の書簡があります。
彼は日記を付けなかったので書簡が彼の日常を追う日々の記録になっています。
「今日は兼ねての約束にて、子供の内、おふさ、おしゅん、おたきと同道、徒歩にて神奈川まで東海道を通行して、夕景に可相成、そこで神奈川発の汽車に打ち乗り帰宅と、唯今支度最中なり。右要用のみ、早々不一。  一月二十九日朝八時  諭吉」
息子達に送った手紙の一部です。

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福沢諭吉書簡集第五巻

福沢諭吉には四男五女、9人の子供がいました。
福沢の特技は居合いの名手でした。趣味は、玄米を精米する「米つき」が健康のための日課で、自宅の改装、増築が好きな普請道楽でもあり、観劇、落語、相撲の観戦も大好きだったそうです。
家庭では、子供達を「さん」付けで呼び、自由放任主義の子煩悩だった様子も手紙で確認することができます。
横浜ワンデーマーチの実像にせまりましょう。
いっしょにでかけた娘三人。 

次女 房(ふさ)は18歳、
三女 俊(しゅん)は15歳、
四女 滝(たき)は12歳でした。
長女の里(さと)はすでに結婚して家を離れていました。五女の光(みつ)は9歳でまだ徒歩旅行には幼かったのでしょう。
ワンデーマーチの内容ですが、出発地は福沢の自宅である港区三田(慶応義塾内に自宅がありました)から明治時代の「神奈川駅」あたりまでと想定します。
距離計算すると約24キロです。
歩き慣れていれば徒歩で時速4キロですが
12歳の足では3キロでも早いかもしれません。

約八時間くらいかかると計算しましょう。
食事の時間もあり9時間で少なくとも夕方(日没)までに「神奈川」に到着するには?
当時の横浜の日没時間を調べてみました。17時6分頃です。
福沢の手紙では八時に「唯今支度最中なり。」とありますので、手紙を書いていますからすぐに出発してちょうど夕方到着というところでしょう。
実際はなりゆきで
道中「鶴見」あたりで時間となり汽車に乗って帰宅するのが安全な選択でしょう。

東海道は箱根駅伝でも分かるように、保土ケ谷まではほぼ平坦ですので歩くのは無理がありません。晴れていれば少し小高い場所から富士山を眺め、鶴見近辺では東京湾を見ながら生麦事件や黒船の話しでもしながら歩いたのかもしれません。
※(当時の鉄道)明治21年当時は横浜(桜木町)と田町間を汽車が走っていました。
その間には東京から「品川」「大森」「川崎」「鶴見」「神奈川」駅がありました。昔の「神奈川」駅は現在の京浜急行神奈川駅ではなく現在の横浜駅そばにある台町近辺です。

同じ「神奈川駅」あたりのエピソードとしては
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

福沢は大変子煩悩で家族を大切にしました。
忙しい中でも時間を作り家族旅行、自宅でのパーティを楽しんでいます。
この膨大な書簡集からは 新しい福沢像を見出すことができます。

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