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No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ

電信が東京横浜間に開通した翌日1871年(明治3年12月17日)の今日、
神奈川県から横浜市内でガス灯事業を展開する事業免許が「日本社中」に下りました。

ところが、この免許申請にいち早く手を挙げ決まりかけていたドイツ商社から抗議が出ます。県の認可はオカシイ。「日本社中」は後から申請したではないか!公正でない!というものです。この認可は、外務省、神奈川県、居留地の外国公使を巻き込みます。現代でもありそうな話しです。今日はこのガス事業をめぐるエピソードをご紹介します。

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横浜は最初に開国した港ということもあり、多くのはじめて物語があります。ガス灯関連に関しても書籍やネットで情報発信をしていますので少し別な角度からこの日本初のガス事業について調べてみました。
★(意外と誤解されていること)はじめてガス灯の点灯に成功したのは横浜ではありません。大阪です。横浜は(ガス灯)瓦斯事業がはじめて起こされた街です。
【本編】
国際商取引のルールは時代に応じて変わります。時代の力関係、政治制度等を含め現在の常識では計れないことが往々にして起ります。
明治初期に起ったガス灯を巡る国際競争の視点からこの事件を考えてみます。
ガス、電気、鉄道、法律、武器、通信様々な外国基準が日本を襲います。
ガス灯事業も幕末から居留地の外国人から提案されていたインフラ整備でした。幕末にアメリカ、明治政府になってドイツ、イギリスの各商社がガス灯を作りたいと免許申請に手を挙げます。欧米のスタンダードモデルを提案してきたのです。国も神奈川県もかなり強い関心を示します。アメリカ、イギリスが却下されたこともあり「ドイツ」に決まりかけていました。
ところがこの事業「待った!」と手を挙げたのが高島嘉右衛門率いるジョイントベンチャー「日本社中」です。名前がふるってますよね。
今で言えば「チームニッポン」ってとこです。ここには「ナショナリズム」が働いています。また時の欧米の政治状況も繁栄しています。当時の日本政府(外務省)と居留地の一部の国がドイツにガス事業のインフラを任せることに難色を示した結果、急遽「日本社中」を組みドイツに対抗します。
同時期、これも欧米各国から鉄道事業に関して建議があり、日本政府は注意深くイギリスに東京横浜間の鉄道敷設を依頼しています。おそらくライバルドイツは「ガス灯は取るぞ!」とプロジェクトを立てたに違いありません。しかも暗い居留地をなんとかしようという要望は居留地各国から出ていたようです。日本政府も当初居留地内だったら(外国資本でも)構わないのではないかと考えていましたが、ガス灯を含めたエネルギー事業は日本の管理下におくべきだという意向がこのガス灯事業にも働きます。
後から手を挙げた「日本社中」にガス事業を許可します。日本チームは技術的裏付けをスイス商社シーベル・ブレンワルト商会を介してフランスに求めます。認可が覆ったドイツは面白くありません。居留地各国に異議を出します。
No.364 12月29日(土)小国の独立力

(しぶしぶかどうかわかりませんが)
外務省と居留地の各国公使が集まり協議します。そこで出された案が居留地の各国による発注投票でした。スイスはドイツと半ば戦争状態、欧州でどんどん国力を増しているドイツにフランスもイギリスも警戒感を強く持っていましたから事実上のドイツ敗北です。(ドイツ領事はドイツ独占を正当と主張、協議会の席を途中退出したそうです)
再度「日本社中」にガス灯事業が決り一気に事業が始まります。シーベル・ブレンワルト商会はプレグランという若き優秀なフランス人技術者を紹介し、彼がこの責任者となります。
1872年10月はじめて街中にガス灯が点灯します。
※これに関しても謎の事実がありドラマが隠されているようです。
この騒動前にプレグランが設計したガス事業の設計図が横浜市に残っているそうです。実は仮プランが彼の下で既に進んでいたのでは?真実はわかりません。
※高島の瓦斯会社はその後町会所に売却されます。

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